八代城(やつしろじょう)
別名:松江城、白鷺城
国史跡、続日本100名城
場所 肥後国
熊本県八代市松江城町
築城者 加藤忠広
築城年 元和八年(1622年)
主な城主 加藤正方(城代)、細川忠興、松井興長(城代)、松井氏(城代)
主な遺構 天守台、石垣、水堀、曲輪

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歴史背景
 八代城は元和五年(1619)の大地震により麦島城が破壊されてしまったため、熊本藩主である加藤忠広加藤清正の子)が加藤正方に命じて築いた城である。元和の一国一城令でも幕府に存続が許された麦島城に代わって、その北側に築かれた八代城は引き続き肥後南部を押さえる重要な拠点を担った。

 寛永九年(1632)、加藤忠広は幕府に改易されてしまい、熊本城には豊前・小倉より肥後52万石の藩主として細川忠利が入り、父の忠興が八代城に入る。正保二年に忠興が没すると、細川氏家老の松井興長が八代城主となる。以後、松井氏が代々城主を務めた。


大天守台
外観五層内観六層(地階含む)の豪壮な大天守だったが、寛文十二年(1672)に落雷で焼失。
その後、再建されることはなかった。

大天守跡(左)と小天守跡(右)

左の奥に大天守台、小天守台があり、右の石垣の角が月見櫓跡

正面の角が月見櫓跡

八代宮神橋
本丸の八代宮本殿に続く。もともとここに橋は架けられてなかった。
八代宮ができた明治時代に架けられた橋。

八代宮神橋

城について
 八代城は八代平野に築かれた平城で、現在は石垣と水堀が残っているが建築物はない。元和八年(1622)に築かれただけあって総石垣の近代城郭で、建築物こそ残っていないが石垣と水堀の組合せは実に素晴らしい。特に大天守、小天守跡の天守台石垣は、なかなか豪壮である。往時には、五層六階の大天守、二層二階の小天守が連なっていたといわれる。また、南側から本丸に入ると八代宮があり、その周囲をぐるりと石垣が囲んでいる。城の西側に不知火海の干潟、南側に球磨川、前川が流れ天然の外堀機能を果たしていた。国指定史跡には「八代城跡群 古麓城跡 麦島城跡 八代城跡」として八代市内の城跡がまとめて登録されている。 

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高麗門跡、欄干橋跡

欄干橋

高麗門跡
門跡を抜けると枡形虎口

頬当御門跡

頬当御門跡石垣

頬当御門跡の石垣

磨櫓(みがきやぐら)跡
城東側に建ち、欄干橋から侵入する敵を防ぐ役割を担った。

横櫓跡
十二間櫓とも呼ばれ、
本瓦葺き、入母屋造りの屋根をもった二層二階の櫓が建っていた。

横櫓跡

横櫓跡

横櫓跡から見た南側の石垣と水堀

本丸南東に建っていた宝形櫓跡

この先が小天守跡

小天守跡

小天守跡
上がってみたら結構手狭な感じ

この先が大天守跡

大天守跡

大天守跡
石垣より下が地階部分でしょうか。

水堀側に「大天守跡」とあります。
これより先は危険です。

大天守跡地階

大天守跡から見た西側の水堀

本丸側から見た大天守跡石垣

本丸北側の唐人櫓跡

唐人櫓跡

本丸北側の入口埋み門跡

本丸北側入口の廊下橋門跡

廊下橋から見た本丸北側の水堀

前方に廊下橋、右側が大天守跡石垣

八代宮拝殿

城周辺には至る所に「くまもん」


八代城復元模型図(現地案内板より)


八代城 関連年表
1588年(天正十六年) 小西行長が麦島城を築城する。
1600年(慶長五年) 小西行長、関ヶ原の戦い後、改易となり、麦島城には加藤清正の城代が入る。
1619年(元和五年) 大地震により麦島城が崩壊する。
1622年(元和八年) 加藤忠広が加藤正方に命じて城地を現在地に移し城を完成させる。
1632年(寛永九年) 加藤氏改易。細川忠利が肥後52万石の領主として熊本城に入り、父の細川忠興(三斎)が八代城に入城する。
1646年(正保三年) 忠興死去(正保二年)後、筆頭家老の松井興長が城代となる。以後、明治まで松井氏が城代を務める。
1672年(寛文十二年) 落雷により大天守、小天守が消失。
1870年(明治三年) 八代城廃城。



周辺地図 スポンサーリンク
駐車場:八代城跡公園駐車場(無料)
      周辺に有料駐車場多数あり
最寄り駅:JR鹿児島本線「八代駅」
訪問年月:2019年4月




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