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戦国武将逸話

上杉謙信の逸話
 上杉謙信と武田信玄といえば、互いに戦国時代を代表する名将であり、川中島で五度も激突したほど敵対した関係にあった。しかし、信玄が今川氏真と対立して塩を止められたときには、謙信は越後から甲斐、信濃の武田領に塩を送りそれを援けた。謙信は戦いは正々堂々するもので、領民を苦しめるのは卑怯だと見過ごせなかったのだ。
 
 また、天正元年に信玄が亡くなった知らせを受けた時、食事中だった謙信は持っていた箸を落とし、「残念なことである。好敵手を失ってしまった。英雄人傑とはまさに信玄のことなり。」と涙を流した。さらに信玄の死後三日間は、城下での音楽を禁じたといわれる。
信玄も死に際に遺言として勝頼に、「謙信は義に篤い人物なので、これからは和睦しこれを頼るように」と言い残した。

 信玄の死に、上杉家の重臣は今こそ信濃に出陣する好機と謙信に出陣を促したが、謙信は「代替わりしたばかりの若い勝頼を攻めるのは大人気ない」と受け付けなかった。さらに、勝頼が長篠の戦いで大敗した時も、「人の落ち目につけ込んで攻め入るのは、本意ではない」と武田領に攻め入ることはなかった。これらのエピソードは、義を重んじた謙信の人間性がよく表れている。


徳川家康の逸話
 徳川家康は天下をとった後に「平氏を亡ぼす者は平氏なり。鎌倉を亡ぼす者は鎌倉なり。」(名将言行録より)と自戒し、自らだけでなく家臣たちにも贅沢を禁じ質素倹約を奨励した。平氏は「平氏にあらずんば人にあらず」といわれるほど栄華を極めたが、平氏一門の奢侈が過ぎ、驕りがでたために源氏に亡ぼされた。また、鎌倉幕府(北条氏)もしかりである。この歴史を教訓に、権力の座に就くものは驕らず、心して行動しなければならないということであろう。幼い頃から苦労し、今川氏、織田氏、豊臣氏の栄枯盛衰を目の当たりにしてきた徳川家康らしい語録である。







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