尼子経久(あまご つねひさ)
尼子氏第四代当主
別名・改名、通称 又四郎(幼名)
生没年 長禄二年(1458)~天文十年(1541)
墓所 島根県安来市広瀬町広瀬 洞光寺
ゆかりのお城 月山富田城、白鹿城、尾高城

尼子経久の生涯
 尼子経久は一代で山陰地方に強大な勢力基盤を築き、中国地方で山口の大内氏と勢力を二分するほどの勢力を誇った戦国大名である。


 経久は長禄二年(1458)、出雲守護代・尼子清定の嫡男として生まれ、文明十年(1478)年頃家督を継いだと推定される。経久は守護代として力を蓄え次第に守護の京極氏や幕府の命令を無視するようになり独立色を強めていった。しかし、これには周囲の反発を招き、文明十六年(1484)一時的に守護代の職を追われ、月山富田城を去ることとなる。文明十八年(1486)元旦、代わりに守護代となっていた塩冶掃部介を正月の祝いに乗じて急襲し月山富田城を奪還する。

 経久はまず出雲国内の国人衆を支配下に置き、その後も伯耆、隠岐、石見、備後へと勢力を拡大し、安芸、美作、備中、備前、播磨、因幡、但馬の一部にも勢威が及んだ。中国地方では山口の名門・大内氏の力が強く、当初は経久も大内氏に従っていた。しかし経久は勢力を拡大すると大内氏から離反し、大内氏と激しい勢力争いが繰り広げるようになる。大永年間(1521~1528)には十一か国の太守になったともいわれるが、山陰地方を除けばその勢力基盤はもろかったともいわれる。また、大永五年(1525)には安芸の有力国人である毛利氏の相続争いの介入に失敗し、その結果毛利元就には大内陣営へ鞍替えされてしまう。

 天文元年(1532)、塩冶氏を継いでいた三男・興久が領土配分の不満から反乱を起こす。天文三年(1534)に鎮圧し興久は自害する。永正十五年(1518)には嫡男・政久が24歳の若さで戦死しており、三男・興久の反乱は晩年の経久にとってつらいものとなった。

 天文六年(1537)、経久は孫の詮久(のちの晴久)が二十歳になったのを契機に隠居し、家督を詮久に譲った。天文十年(1541)、月山富田城内で死去。当時としてはかなり長寿で享年84。


三日月公園に立つ尼子経久像

洞光寺墓所
左が尼子経久の墓で右が父・清定の墓



尼子氏家紋
父:尼子清定

母:真木朝親の娘

子:尼子政久、尼子定久、尼子国久、塩冶興久

兄弟:尼子久幸


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尼子経久 関連年表
1458年(長禄二年) 尼子清定の嫡男として生まれる。
1478年(文明十年)頃 清定から尼子氏の家督をから継ぐ。
1484年(文明十六年) 経久、出雲国守護代の地位をはく奪され、月山富田城を追われる。代わりに塩冶掃部介が守護代となる。
1486年(文明十八年) 塩冶掃部介を急襲し、月山富田城を奪還する。
1518年(永正十五年) 嫡男・政久が桜井宗的籠る阿用城を攻撃中に矢を射られて戦死。
1524年(大永四年) 毛利元就が尼子傘下から大内傘下となる。
1532年(天文元年) 三男・塩冶興久が尼子氏に対して反乱を起こす。
1534年(天文三年) 興久の反乱を鎮圧する。興久は自害。
1537年(天文六年) 家督を孫の詮久に譲る。
1541年(天文十年) 1月、詮久率いる吉田郡山城攻略に失敗し兵を引き上げる。
11月、月山富田城内で経久死去。享年84。


尼子氏の居城だった月山富田城跡

月山富田城下にある三男・興久の墓


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