毛利元就(もうり もとなり)
毛利家第12代目当主
 別名、改名、通称 松寿丸(幼名)、少輔次郎
 官位、役職 陸奥守 
 生没年 明応六年(1497)〜元亀二年(1571)
 墓所 広島県高田郡吉田町 旧洞春寺跡(吉田郡山城跡)
 ゆかりのお城 吉田郡山城月山富田城、猿掛城、鏡山城、佐東銀山城
宮尾城、山吹城

毛利元就の生涯
 毛利元就は、安芸の小領主から中国地方のほぼ全域を支配するまでにのしあがった西日本随一の戦国大名である。中国地方3大謀将(他の2人は尼子経久と宇喜多直家)の1人といわれ、稀代の謀将でさまざまな手段を用いて領土を広げていった。また、息子たちにも恵まれ、長男隆元、次男元春、三男隆景はいずれも優れた武将であった。元就が三人の息子に語ったとされる「三本の矢」のエピソードはあまりにも有名。



 毛利元就は明応六年(1497)、毛利弘元の次男として生まれる(幼名は松寿丸)。弘元の跡を継いだ兄の毛利興元が急死し、その息子幸松丸が後を継ぐがまだ幼少のため元就が後見人となっている。永正十四年(1517)、元就は幼少の幸松丸の代理として出陣した元就自身初陣となる有田城救援戦で奇跡的な勝利を収め、周辺に名を轟かせるようになる(有田・中井手の戦い)。この戦いは後世に「西の桶狭間」といわれるほどである。

 大永三年(1523)、幸松丸もわずか九歳でこの世を去ったので、元就は二十七歳で毛利家を継ぐこととなる。翌年には、さっそく異母弟の元網の謀反を事前に察知し、誅殺することとなる。この謀反には、裏で尼子経久が関わっていたとされ、この事件を契機にもともと尼子陣営であった毛利家は大内義興の陣営に鞍替えすることとなる。享禄二年(1529)になると、調略により外戚として毛利家に深く干渉していた高橋氏を滅ぼし、その領土を手に入れる。さらに、尼子氏が内紛を生じ、安芸に干渉できなくなっている間に元就は安芸国内で勢力を拡大していくのである。

 経久の孫尼子晴久は、天文九年(1540)六月、備後路より安芸に侵入するがこのときは、娘婿の宍戸隆家の抵抗により撤退。同年九月、晴久は再び石見路より3万の大軍を率いて安芸に侵攻してくる。元就は吉田郡山城での籠城戦を選び、大内家へ援軍を要請する。尼子軍は3万の大軍で吉田郡山城を取り囲むが元就の巧みな用兵により攻めあぐね、結果、尼子軍は滞陣が長引き次第に厭戦気分が漂いはじめる。そこへ陶隆房率いる大内軍が1万余が援軍で駆けつけ、尼子軍を攻撃。毛利軍も呼応し、尼子軍は総崩れとなり出雲へ退却し毛利・大内連合軍の大勝利により吉田郡山城の戦いは幕を閉じるのである。この戦いの勝利により、勢いづいた大内義隆は今度は攻勢に転じ、出雲へ兵を進める。もちろん、大内陣営であった元就も出雲遠征へ従軍している。だが、尼子勢の抵抗はすさまじく、大内側であった国人衆の寝返りなどもあり、大内軍は大敗(第一次月山富田城の戦い)。元就自身も命からがら安芸に退却したといわれる。

 大内義隆はこの戦いにより領土拡大の野望を失い、公家文化を発展させようとしたため、次第に武断派の陶隆房などが反発し始め、ついには隆房の謀反により追い込まれ自害する(大寧寺の変)。大内氏が混迷を深めている間にも元就は次男・元春を吉川家へ三男・隆景を小早川家へそれぞれ養子にやり、実質両家を乗っ取り、毛利両川体制を確立していくこととなる。そして、元就はなおも勢力を拡大し、陶晴賢(隆房改め)と次第に対立するようになり、ついには厳島の戦いに発展するのである。毛利軍は数に劣ったため、元就はさまざまな手を使って陶晴賢を厳島におびき寄せ、陶軍を奇襲する。陶軍は海上へ逃れようとするが、小早川隆景が事前に仲間に引き入れていた村上水軍の活躍などにより陶軍(大内水軍)は壊滅。陶晴賢も自害して果てる。

 陶晴賢を破った元就は、大内領の周防、長門も攻略し、晴賢の傀儡国主といわれた大内義長を滅ぼす。そして、永禄五年(1562)より長年の宿敵尼子攻略にとりかかるが、その途中で家督をついでいた長男・隆元が死去。息子に先立たれ失意の元就であったが弔い合戦として尼子十旗の1つ出雲の白鹿城を陥れ、ついに難攻不落の名城月山富田城を包囲する。月山富田城攻めは、3年にもおよぶが元就は辛抱強い徹底した包囲網も敷き、永禄九年(1566)十一月、ついに尼子氏当主尼子義久(晴久の子)は降伏する(第二次月山富田城の戦い)。これにより、元就は中国地方の大部分を支配する大大名へとのしあがったのである。

 その後も元就は北九州や四国にも経略の手を伸ばすが、大友宗麟との戦いは一進一退を繰り返し長期化し、国内では一揆や山中幸盛などが率いる尼子再興軍が蜂起し、悩みの種は消えなかったようだ。元亀二年(1571)六月、稀代の謀将毛利元就は毛利家の行く末を案じつつ、吉田郡山城にて75年の生涯を閉じる。


毛利家の家紋
父:毛利弘元

子:長男 毛利隆元、次男 吉川元春、三男 小早川隆景、四男 穂井田元清、
   七男 天野元政、九男 毛利(小早川)秀包など

孫:毛利輝元、毛利秀元、吉川元長、吉川広家など

兄弟:毛利興元、相合元網など  


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毛利元就 関連年表
1497年(明応六年) 安芸国の国人、毛利弘元の次男として生まれる。
1500年(明応九年) 隠居した父弘元とともに猿掛城に移る。
1506年(永正三年) 父弘元死去。
1511年(永正八年) 元服し毛利元就と名乗るようになる。
1516年(永正十三年) 兄興元死去。
1517年(永正十四年) 元就初陣。有田・中井手の戦いで熊谷元繁を打ち破る。
1523年(大永三年) 幸松丸死去。元就、毛利家の家督を継ぐ。
1524年(大永四年) 異母弟相合元網を討つ。
1525年(大永五年) 尼子経久と絶ち大内義興の傘下となる。
1540年(天文九年) 尼子晴久率いる3万の大軍に吉田郡山城が囲まれる。
1541年(天文十年) 吉田郡山城の戦いで勝利。尼子軍撤退する。
1542年(天文十一年) 大内義隆の月山富田城の戦いに従軍するも大内軍大敗し命からがら安芸に逃げ帰る。
1546年(天文十五年) 家督を嫡男隆元に譲る。
1547年(天文十六年) 次男元春、吉川家を継ぐ。
1550年(天文十九年) 三男隆景、沼田小早川家を継ぐ。
1551年(天文二十年) 大内義隆、家臣の陶隆房(晴賢)の謀反により死去。(大寧寺の変)
1554年(天文二十三年) 折敷畑の戦いで陶軍に勝利。
1555年(弘治元年) 厳島の戦いで陶軍を撃破。陶晴賢は自刃して果てる。
1557年(弘治三年) 大内義長を討ち防長を経略する。(大内氏を滅ぼす)
隆元、元春、隆景三子に訓戒状をしたためる。(後に三本の矢の逸話になったといわれています。)
1559年(永禄二年) 隆元、大友軍に門司城で勝利する。
1560年(永禄三年) 尼子晴久死去。義久跡を継ぐ
1562年(永禄五年) 尼子氏討伐のため、出雲へ侵攻をを開始する。
1563年(永禄六年) 長男隆元死去。
尼子氏の出雲白鹿城を落とす。
1566年(永禄九年) 11月、尼子義久降伏により月山富田城落城。(尼子氏を滅ぼす)
1569年(永禄十二年) 山中幸盛(鹿介)が中心となり尼子勝久を立て、尼子再興軍が蜂起する。
1571年(元亀二年) 元就、吉田郡山城にて75年の生涯を閉じる。

毛利元就の居城・吉田郡山城本丸跡
吉田郡山城は、天正十九年(1591)に輝元が広島城に移るまで毛利氏の本城として機能した。

百万一心の碑
元就は吉田郡山城の拡張時に、それまでの風習だった人柱に替わって「百万一心」と彫らせた石を埋めさせたといわれる。

毛利元就の墓
吉田郡山城の搦手にあった洞春寺跡に残る元就の墓。

毛利元就火葬場跡

尼子氏の居城・月山富田城山中御殿平
永禄九年、元就は苦労の末に宿敵・尼子氏の居城・月山富田城を落とし、中国地方の覇者となる。

厳島古戦場
奇襲によって陶晴賢の大軍を撃破した厳島。

1口メモ
 権謀術数を使って安芸の小領主から中国地方の大部分まで支配する大大名となった毛利元就は、戦国時代を代表する武将の一人である。



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