斎藤道三(さいとう どうさん)
斎藤家当主、土岐家家臣
別名、通称、改名 長井新九郎規秀、斎藤利政、松波庄五郎、西村勘九郎
山城守、左近大夫
生没年 明応三年(1494)?〜弘治二年(1556)
墓所 岐阜県岐阜市梶川町 常在寺
岐阜県岐阜市長良福光 道三塚
ゆかりのお城 稲葉山城、鷺山城、大桑城など

斎藤道三の生涯
 斎藤道三は、一介の油売りから身を起こし、権謀術数を駆使してついには美濃一国の国主となった戦国時代を代表する大名の一人である。また、美濃の蝮(マムシ)と呼ばれ、主家の土岐家から国を奪い取ったように下克上によって成り上がった人物で、梟雄として名高い。また、織田信長の嫁の帰蝶の父としても有名。
 だが最近では道三の美濃の国盗りは、親子2代による所業だったという説が有力となっているようで、謎の多かった前半生の油売りの身で京都から美濃の国にやって来て武士になったのは、道三の父、長井新左衛門尉という人物ということのようだ。



 道三(道三の父の可能性が高いが一応道三ということにします)は、元々は京都の妙覚寺で僧侶であったが、野心が強く二十歳を過ぎると俗世に生きることを決意する。やがて、油商人となった道三は、各地をまわりつつ知識や情報を得ていく。もともと、頭脳明晰で、頭も切れたため油売りとして人気も高かったようだ。そして、美濃にも出入りするようになり、ついに美濃国守護の土岐家家老斉藤家の重臣長井家の家臣となり、西村勘九郎と名乗るようになる。

 やがて、道三は美濃守護・土岐政房の次男土岐頼芸に仕えるようになる。しかし土岐政房が没すると、道三の仕えていた土岐頼芸は相続争いに破れ、頼芸の兄の土岐頼武が美濃守護土岐家を相続することとなる。これ以降も頼芸と頼武の相続争いは続くが道三はその頭脳と武勇によって頼芸の信任はますます篤くなっていく。ついには、頼芸は道三に側室の深芳野を与えている。享禄二年(1529)には、その深芳野との間に新九郎(のちの義龍)が生まれることとなる。

 美濃の蝮の真骨頂はここからで道三はかつての主人長井長弘を殺害し、長井新九郎規秀と名乗り、野心をあらわにしていく。まず、道三は長井氏の稲葉山城を居城として要塞化。さらには天文四年頃には、守護代の名跡を継ぎ、斎藤新九郎利政と名を改めている。道三は謀略、政略を駆使し1歩1歩階段を上り、国盗りの準備を整えていくのである。
 
 そして、ついには天文十二年(1543)、頼武の嫡子土岐頼純を大桑城から追い出し(頼純は越前朝倉氏へ亡命)、頼芸を美濃守護に導いている。だが、翌天文十三年(1544)尾張織田信秀朝倉孝景と語らって頼純支援を大義名分に美濃に攻め込んできたのである。織田軍の勢いはすさまじく稲葉山城は落城寸前にまで追い込まれる。しかし、道三は織田軍の一瞬の油断も見逃さず、奇襲攻撃をかける。 不意をつかれた織田軍は壊滅寸前となり5000余の戦死者を出したといわれる(加納口の戦い)。その後、幕府の仲介によって頼純は大桑城主に返り咲くが、まもなく道三によって殺害されている。

 信秀は、天文十七年(1548)、頼純の弔い合戦と称して再び美濃に兵を侵攻させてくる。やはり、織田信秀軍は強く、西美濃の穀倉地帯を次々と占領していった。だが、ここで道三は信秀と尾張守護代織田家との離間の計を案じる。それがまんまと成功し、信秀は勝ち戦ながら尾張へ撤兵していくのである。このように道三は信秀には戦で圧倒されながらも、策略で乗り切ったのである。

 天文十八年(1549)には、駿河今川家の脅威が迫っていた織田家は美濃を諦め、道三と講和し、そのしるしとして、道三の娘・濃姫(帰蝶)が織田信長に輿入れした。これにより、土岐家を排除しやすくなった道三は天文二十一年(1552)、ついに頼芸(もともと傀儡であったが)を追放し、美濃国主へと成り上がり国盗りを達成するのである。

 道三は美濃の国力を磐石とするため産業育成にも力をいれ、「楽市楽座」の創設や木曾谷からの木曾川を通る材木運送への課税を行っている。これにより、岐阜の城下町は大きく発展していく。また、西美濃三人衆安藤守就稲葉一鉄氏家卜全)を仲間に取り込むなど、美濃の支配を磐石にしていく。

 天文二十三年(1554)には、嫡男・義龍に家督を譲り、道三自身は鷺山城へ退いている。だが、道三は義龍政権に介入を続けており、これを義龍は必ずしも良しとはしなかった。さらに、道三を密かに憎む土岐家旧臣は、義龍を道三の子ではなく頼芸の子とする噂を立て、義龍自身に疑念を生じさせる。(義龍の母深芳野が頼芸から道三に下げ渡されてから一年以内に義龍が生まれたため義龍自身も自分は頼芸の子ではないかと疑念をもっていたとされる。)そして、道三自身も弟2人をかわいがり、廃嫡も考えるようになる。これに危機感を募らせた義龍はついに弟2人を殺害、道三と義絶する。弘治二年(1556)4月18日には戦に発展、道三軍2700に対し義龍軍17000(土岐家旧臣のほとんどが義龍側についたとされる)。多勢に無勢、4月20日に道三は討ち死にする(長良川の戦い)。道三はこの時の義龍の戦の采配ぶりを見て感嘆し、斎藤家の今後に安心したといわれる。また、援軍に駆けつけていた娘婿の織田信長に対し美濃一国譲り状なるものを届けさせていたともいわれる。享年63。


斉藤家の家紋
父:長井新左衛門尉

子:斎藤義龍   孫四郎   喜平治   日覚   利尭   利興   濃姫(帰蝶)など    

孫:斎藤龍興など


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斎藤道三関連年表
1494年(明応三年)? 道三生まれる。
1529年(享禄二年) 深芳野との間に義龍が生まれる。
1535年(天文四年) 長良川大洪水。
斎藤新九郎利政と名を改める。
稲葉山城築城。
1536年(天文五年) 六角定頼、朝倉孝景、美濃へ出兵。
1544年(天文十三年) 織田信秀、朝倉孝景、土岐頼純を支援のため、美濃へ侵攻してくる。織田軍を撃退する。(加納口の戦い
1546年(天文十五年) 土岐頼純と講和する。
1547年(天文十六年) 土岐頼純を殺害。
1548年(天文十七年) 織田信秀に再び美濃へ侵攻されるが、道三の計略により信秀を尾張へ撤退させる。
1549年(天文十八年) 織田信秀と講和し、織田信長に濃姫(帰蝶)を輿入れさせる。
1552年(天文二十一年) 土岐頼芸を追放し、美濃をほぼ平定する。
織田信秀死去。
1553年(天文二十二年) 娘婿の織田信長と正徳寺にて会見する。
1556年(弘治二年) 義龍と長良川を挟んで戦い、討死。63年の生涯を閉じる。

一口メモ
斎藤道三の国盗り物語は、親子二代によるという説や資料により年代が違ったりと非常に分からないことが多すぎます。しかし、それが逆に謎が多く想像をかきたてて面白いような気もします。



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