織田信長(おだ のぶなが)
別名、改名、通称 吉法師(幼名)、三郎、うつけ、第六天魔王
官位、役職 右大臣、内大臣、右近衛大将、権大納言、
参議、彈正忠、尾張守、上総介
生没年 天文三年〜天正十年(1534〜1582)
墓所 京都市北区 大徳寺総見院
京都市上京区 阿弥陀寺   他
ゆかりのお城 安土城、岐阜城、那古野城、清洲城、二条城、犬山城など

織田信長の生涯
 戦国の風雲児といわれ、次々と強敵を打ち破り天下統一目前まで迫ったが、最後は本能寺の変で家臣・明智光秀の裏切りにより自害。延暦寺焼き討ち、伊勢長島門徒宗に対しての皆殺しなどの苛烈な所業も目立つが、革新的な政策、人材登用、合戦での鉄砲の活用法など天才的な面も多い。また、戦国乱世の終息を早めた偉業は、信長の卓越した能力によって成せた所業であったといえる。



 織田信長は天文三年(1534)5月28日、尾張の戦国大名織田信秀の嫡男として生まれる。若い頃は型破りな服装でふらふら街を闊歩し「大うつけ」と周囲にいわれていたようだ。だが、正徳寺で会見した舅の斎藤道三は信長の底知れぬ能力を見抜き、美濃はやがて信長のものとなるだろう(自分の息子たちは信長の家来になるだろう)と予見したという逸話がある。

 天文二十年(1551)、父信秀が急死すると家督を継ぐ。だが、もともと信長の大うつけぶりにあきれていた林佐渡守秀貞柴田勝家らは信長の弟の信行を立て謀反を起こす。信長は迅速に謀反を終息させ、信行は後に謀殺される。さらに尾張国内の対抗勢力も次々打ち破り、ほぼ尾張を統一する。尾張統一する頃になると、家臣たちも信長の非凡な能力を感じ、「うつけ」と口にする者もいなくなる。

 尾張を統一してまもなく信長に最大の危機が訪れる。永禄三年(1560)、東海一の弓取りといわれた今川義元がおよそ2万5千の大軍を率いて尾張へ侵攻してきたのである。それに対する織田軍およそ5千。形勢は明らかに織田軍に不利であったが、信長は桶狭間にて義元本陣を奇襲し義元の首級を挙げ今川軍に大勝利したのである(桶狭間の戦い)。この戦いの後に徳川家康が今川家から独立し、2年後に信長と家康は同盟を結ぶこととなる(清洲同盟)。この同盟により信長は西進に専念できるようになったのである。

 信長はまず美濃攻略を開始するが斎藤義龍がいる間は攻めあぐねる。しかし、義龍が急死し、若年の龍興が跡を継ぐと次第に織田方が有利な情勢へとなっていく。さらに西美濃三人衆竹中半兵衛重治などの有力な美濃勢が味方となり、ついには永禄十年(1567)斎藤氏の本拠稲葉山城を陥れ、美濃を手に入れる。そして、この時に井の口を「岐阜」と改め、「天下布武」の朱印を使うようになり、天下統一を意識し始めたといわれる。

 永禄十一年(1568)には、信長は第13代将軍義輝の弟足利義昭を担ぎ、上洛を開始する。抵抗する南近江の六角氏を撃破し、上洛を難なく果たす。また、畿内で勢力を張っていた三好三人衆は信長を恐れて阿波へ逃れ、松永久秀は信長に臣従するのである。この後も三好勢は、抵抗するが織田軍は畿内をほぼ制圧していき、日本最大の商業都市も支配下に置くのである。
さらに、伊勢の神戸具盛北畠具教を降伏させ、伊勢もほぼ手中に収める。

 元亀元年(1570)、信長は、再三上洛の要請をしていたにもかかわらず従わなかった朝倉義景の討伐に向かう。織田軍は、朝倉軍を圧倒し次々と城を落としていくが金ケ崎あたりにさしかかった辺りで浅井久政・長政父子が突然織田軍に対して兵を向けたのである。織田軍は越前朝倉軍と近江浅井軍に挟まれる格好となり窮地に追い込まれる。信長にとっては妹お市を嫁がせていた浅井長政が裏切るというのは寝耳に水であったが、長年培われてきた朝倉家と浅井家の関係は信長が考えていた以上に強固なもので浅井家は朝倉家の窮地を見逃すことができなかったのである。要するに浅井家が織田家より朝倉家との関係を重視した結果といえる。だが、信長はこの絶対的な危機的状況も殿(しんがり)の木下秀吉明智光秀池田勝正や共に従軍していた徳川家康などの活躍により無事京へ帰還できたのである(金ケ崎の退き口)。

 無事に帰還できた信長であったが、かねてより将軍の権力を信長により制限されて不満を持っていた足利義昭は、この織田軍の敗戦を好機と見て各地の大名に「信長追討」の檄文を送り「信長包囲網」を形成するのである。この包囲網をきっかけに、浅井・朝倉・武田・本願寺・毛利・三好三人衆・六角の残党などが一斉に信長の敵となり、信長は最大の危機を迎えるのである。また、これにより信長と将軍義昭の対立も決定的となっていく。さらに、なんといっても浅井氏が敵となったことで岐阜・京都間の通路が遮断される恐れが生じてくるのである。これに対して、信長は浅井領へ侵攻し、やがて織田・徳川連合軍2万8千と浅井・朝倉連合軍1万8千が姉川を挟んで両軍が激突するのである(姉川の戦い)。浅井軍は織田軍に対して善戦するも、数に勝る織田・徳川連合軍に押され、やがて浅井・朝倉軍は崩れたち逃走するのである。この戦は織田・徳川連合軍の大勝利に終わり、後の浅井氏攻略に大きな足がかりとなったのである。

 元亀二年(1571)には、浅井・朝倉軍を匿ったということで、信長は比叡山延暦寺の焼き討ちを行った。これは、当時の人々にとっては驚愕であり、信長の恐ろしさを示した事件であったと思われる。

 元亀三年(1572)十月、武田信玄は念願の上洛戦を開始し甲斐を出発し、徳川領の遠江・三河、織田領東美濃に侵攻してくる。武田信玄は信長の動きが取れないように各大名に働きかけ、足利義昭、三好勢、松永久秀、浅井、朝倉、本願寺などが蜂起する。この状況に信長は何とか徳川家康に3千の援軍を送るものの、家康は三方ヶ原で武田軍に大敗。家康は窮地に陥り、信長自身も相当な危機を迎えることとなる。だが翌年四月、武田信玄は病死し武田軍は甲斐へ退却。信長、家康共に最大の危機を乗り越え、胸をなでおろすのである。

 信玄の病死をきっかけに、信長は一気に敵対勢力を一掃する。元亀四年(1573)七月には将軍足利義昭を攻め、京から追放し室町幕府を滅ぼす。天正元年(1573)八月になると朝倉義景を、九月に浅井長政をそれぞれ滅ぼし、さらにこの年に三好勢を滅ぼし、松永久秀を降伏させたのである。これにより、織田家に対する包囲網は崩れ、信長は窮地を脱している。天正二年(1574)、伊勢長島一向一揆も多大な犠牲を出しながらも鎮圧。一揆勢は織田軍に女子供まで討ち取られ、2万人以上の犠牲を出したといわれている。

 天正三年(1575)、信長は頻繁に徳川領や美濃を侵していた武田勝頼と激突することとなる。武田軍が長篠城攻略に手間取っている間に、織田・徳川連合軍は後詰として長篠城救援に兵を差し向け、主力は設楽原に陣を敷く。そこへもともと織田・徳川との主力決戦を望んでいた勝頼率いる武田軍が突入し、両軍は激突する。織田・徳川3万5千(2万5千〜1万5千とする説も)に対し、武田1万5千(7千〜1万とする説も)。最強を誇った武田騎馬隊は、織田軍の鉄砲隊(3段撃ちをしたといわれる)や防護柵に阻まれ壊滅し、武田軍は敗走する(長篠の戦い)。

 天正四年(1576)になると、信長は安土城の築城を始め、天正七年(1579)に完成させている。5重7階の天主を有する華麗な外観を呈し、内部は絵画で色とりどりの間取りを構える豪華絢爛さを誇り、当時の信長の権威を示すものであった。

 天正八年(1580)三月、信長と本願寺顕如が和睦し、10年に及ぶ石山合戦は一応終息する。さらに、天正十年(1582)三月には、武田勝頼・信勝親子を討ち取り武田氏を滅ぼす(天目山の戦い)。

 武田氏を滅ぼし天下統一目前で、絶頂の織田信長であったが、天正十年(1582)六月二日、家臣・明智光秀の謀反により本能寺にて自害(本能寺の変)。享年49。
信長の好んだあまりにも有名な幸若舞の敦盛
人間五十年  下天のうちを比ぶれば  夢幻の如くなり
  一度生を得て   滅せぬ者のあるべきか・・・


織田家の家紋
織田木瓜
父:織田信秀   母:土田御前

子:長男 織田信忠 次男 織田(北畠)信雄、三男 織田(神戸)信孝、四男 羽柴秀勝など

孫:織田秀信など

兄弟:織田信行、織田長益(有楽斎)、お市など


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織田信長 関連年表
1534年(天文三年) 尾張の戦国大名織田信秀の嫡子として誕生。
1546年(天文十五年) 古渡城で元服。
1548年(天文十七年) 斎藤道三の娘・帰蝶と婚姻。
1551年(天文二十年) 父・信秀が死去したため家督を継ぐ。
1553年(天文二十二年) 1月、信長の傅役で重臣の平手政秀が信長を諌めるため自害。
4月、舅・斎藤道三と正徳寺で会見。
1556年(弘治二年) 長良川の戦いで斎藤道三が息子の義龍に討たれる。
1557年(弘治三年) 弟・信行を討つ。
1559年(永禄二年) 岩倉城の織田信賢を攻めて勝利し、ほぼ尾張を統一する。
1560年(永禄三年) 桶狭間の戦い今川義元を討ち取る。
1562年(永禄五年) 徳川家康と同盟を結ぶ。(清洲同盟
1567年(永禄十年) 斎藤龍興の稲葉山城を攻め落とし、美濃を手に入れる。城下町を岐阜と改める。
1568年(永禄十一年) 2月、北伊勢を攻略し、三男信孝を神戸家の養子とする。
9月、足利義昭を奉じて上洛を果たす。
1570年(元亀元年) 6月、徳川軍と共に浅井・朝倉両軍を姉川の戦いで破る。
1571年(元亀二年) 9月、比叡山延暦寺の焼き討ちを行う。
1572年(元亀三年) 12月、武田信玄に三方ヶ原の戦い徳川家康・織田援軍が大敗する。
1573年(元亀四年) 4月、武田信玄死去。
7月、足利義昭を京から追放し、室町幕府を滅ぼす
1573年(天正元年) 8月、朝倉義景を攻め滅ぼす。
9月、浅井長政を攻め滅ぼす。
1574年(天正二年) 長島一向一揆を掃討。
1575年(天正三年) 5月、長篠の戦いで武田勝頼に勝利。
8月、越前一向一揆を掃討。
1577年(天正五年) 9月、上杉謙信手取川の戦いで柴田勝家率いる織田軍が敗れる。
10月、謀反を起こした信貴山城の松永久秀を討つ。
1578年(天正六年) 3月、上杉謙信死去。
10月、荒木村重が叛旗を翻す。
11月、鉄甲船の活躍により第二次木津川口の戦いで毛利水軍を撃破する。
1579年(天正七年) 安土城完成。
1580年(天正八年) 3月、本願寺顕如と和睦。約10年およぶ石山合戦が終結。
11月、加賀一向一揆平定。
1581年(天正九年) 正親町天皇を迎え京都御馬揃えを行う。
1582年(天正十年) 3月、天目山の戦いで武田勝頼を討ち取る。甲斐源氏・武田氏滅亡。
6月2日、本能寺の変。明智光秀謀反により信長自害。享年49。

那古野城跡(名古屋城二の丸)
天文三年(1534)、信長は那古野城で生まれた。

尾張時代の拠点・清洲城

敦盛を舞う信長(清州城内)

清洲城にある信長の正妻・濃姫像

桶狭間古戦場跡

覇王・信長の居城だった安土城跡の大手道

安土城天主跡

安土城跡にある信長公本廟

安土駅前にある織田信長像

清洲城跡近くの清須公園にある織田信長像

1口メモ
 秀吉、家康と並び戦国時代の三英傑の1人だが、信長なくして秀吉と家康の天下もなかったのではないかと思われる。信長の革新的な考え方と天才的な能力は当時図抜けていたに違いない




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