島津義久(しまづ よしひさ)
島津家第16代目当主

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別名、改名、通称 虎寿丸(幼名)、忠良、義辰、龍伯、又三郎
生没年 天文二年(1533)〜慶長十六年(1611)
墓所 鹿児島県鹿児島市池之上町 福昌寺跡墓地
ゆかりのお城 内城、富隈城、伊作城、舞鶴城

島津義久の生涯
 龍造寺家、大友家を圧倒し、九州を席巻した島津家の当主である。優秀な弟達を適材適所に配置し、指揮して九州をほぼ平定した名将である。島津家中興の祖といわれる祖父・忠良より「三州の総大将たるの材徳自ら備はり」と評されたとされる。つまり、義久は当主としての人徳が元から備わっていたということになる。



 島津義久は、天文二年(1533)、薩摩・伊作城で島津貴久の長男として誕生。幼名は虎寿丸である。永禄九年(1566)には、父・貴久より家督を相続し、島津家第16代当主となる。

 まず当時、島津氏と対立していたのが大隈の肝付氏と日向の雄・伊東義祐であった。両者は互いに手を結んで対抗し、島津家を脅かしていた。しかし、元亀三年(1572)、弟・義弘がわずか300の兵で伊東勢3000を木崎原で島津家の得意戦法「釣り野伏」で撃破する。(木崎原の戦い)。この戦いを期に伊東氏は衰退していき、大隈の肝付氏も単独では島津家に抗し難く、天正二年(1574)に肝付兼亮は義久に降伏する。やがて伊藤義祐も次第に追い詰められていき、天正五年(1577)、豊後の大友宗麟を頼って落ちのびた。これにより、島津家悲願であった薩摩、大隈、日向、三国支配を成し遂げ、鎌倉時代以来の領土を回復したのである。

 天正六年(1578)、伊東義祐に頼られた大友宗麟が義祐の旧領回復を口実に、日向に侵攻を開始する。当時、九州一の勢力を誇った大友家は4万3000という大軍で、城主・山田有信や応援に駆けつけた島津家久ら3000が籠もる高城にせまる。義久自身も島津氏総力をかけた3万を超える大軍を率いて高城の後詰に向かう。この戦いでも島津軍は「釣り野伏」を用い、大友軍を誘き出し、伏兵により撃破する。さらに、高城の家久が側背を突き、大友軍は大混乱に陥り総崩れとなる。これを島津軍は耳川まで追撃し、大友軍は討ち取られた者や溺死した者が3000〜4000にのぼり、耳川一帯は血で染まったといわれる(耳川の戦い)。大友軍はこの戦いの時、指揮系統がはっきりせず、足並みが揃っていなかったとされる。また、大友家はこの敗戦を境に衰退の一途をたどる。

 この大友家衰退により、台頭してきたのが肥前の熊といわれた龍造寺隆信である。その勢力拡大は、すさまじく「五州二島の太守」と呼ばれるほど力を持ち始める。この隆信に反抗したものの圧迫に苦しむ島原半島の有馬晴信は、島津家に支援を求める。九州北部経略を目論む島津家も有馬家支援のため、島津家随一の戦上手である末弟・家久が3000の兵を率いて島原半島へ向かうこととなる。龍造寺隆信も有馬氏討伐のため約2万5000(2万とも3万とも6万とする説がある)の大軍を率いて島原半島へ進軍。一方、島津・有馬連合軍は約8000。家久は龍造寺軍を低湿地帯で細い道しかない沖田畷に誘い込み、敵方大将・龍造寺隆信や龍造寺四天王をはじめ2000を超える兵を討ち取り大勝する(沖田畷の戦い)。龍造寺家はこの敗戦により衰退し、隆信の子・政家は事実上、島津家の軍門に下る。

 以後、肥後、肥前、筑後、筑前の諸将は続々と島津家の軍門に降り、九州において島津家に対抗するのは、衰退した大友家を残すのみとなる。この頃になると、大友宗麟は大坂の豊臣秀吉に支援を求めており、島津勢が大友家の本拠・豊前に侵攻すると、秀吉は仙石秀久を戦目付とし十河存保長宗我部元親信親父子の軍勢を援軍で送ってきた。この援軍をまたしても末弟・家久の活躍により撃退する(戸次川の戦い)。

 しかし、天正十五年(1587)、豊臣秀吉は九州・島津氏の征伐軍約20万を派遣し、自らも出陣してきた。島津氏に服属していた北九州諸将は秀吉の大軍の前に次々と豊臣側に離反し始めたため、島津軍は南九州へ後退を余儀なくされる。島津軍は日向・根白坂で豊臣秀長に敗れ、義久はもはやこれまでと頭を丸め、秀吉に降伏する。この時、義久は、まだ抗戦の姿勢を見せていた弟・義弘らを説得し恭順させている。秀吉からは薩摩、大隈、日向の1郡をなんとか安堵されることとなる。

 その後、義久は秀吉政権に対して積極的にかかわらず、朝鮮出兵なども弟の義弘が義久に代わって渡海している。秀吉死後、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、義弘が西軍に参戦するが西軍は敗れる。そのため、島津家は改易または、最低でも減封は免れない情勢となる。しかし、義久の巧みな交渉術と九州最南端という位置関係も幸いして、慶長七年(1602)に徳川家康から本領安堵されることとなる。その後は、自身に男子がいなかったため義弘の子・忠恒に家督を譲るが影響力は保持したといわれる。そして、慶長十年(1611)、大隈・国分舞鶴城で死去。享年79。

島津氏の家紋「丸に十の字」
祖父:島津忠良(日新斎)

父:島津貴久

兄弟:島津義弘、島津歳久、島津家久

子:亀寿姫(島津忠恒の正室)
  


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島津義久 関連年表
1533年(天文二年) 島津貴久の長男として薩摩・伊作城で誕生。
1566年(永禄九年) 家督を継ぎ、島津家16代当主となる。
1568年(永禄十一年) 祖父・島津忠良死去。
1571年(元亀二年) 父・島津貴久死去。
1572年(元亀三年) 日向の伊東義祐軍を木崎原の戦いで打ち破る。
1574年(天正二年) 肝付氏降伏し、大隈国を平定。
1577年(天正五年) 島津軍の侵攻により、伊東義祐、領地を捨て豊後の大友宗麟を頼る。
1578年(天正六年) 高城川・耳川の戦いで大友軍に大勝。
1581年(天正九年) 南肥後の水俣城主・相良義陽が島津家に降伏する。
1584年(天正十二年) 末弟・家久、沖田畷の戦い龍造寺隆信を討ち取る。
1586年(天正十四年) 7月、大友家屈指の名将である高橋紹運が籠もる筑前・岩屋城を多大な犠牲を伴いながら落とす。高橋紹運をはじめ、約700名の城兵もすべて玉砕(岩屋城の戦い)。
12月、末弟・家久、大友家の援軍である四国勢を中心とした豊臣軍を戸次川の戦いで破る。
1587年(天正十五年) 1月、豊臣秀吉、九州・島津征伐の軍令を発する。
3月、豊臣秀長率いる軍勢が豊前へ上陸。
4月、根白坂の戦いで豊臣秀長軍に敗れる。
5月、義久、剃髪し薩摩・川内で豊臣秀吉に降伏。
1596年(慶長元年) 秀吉から薩摩から大隈への領地替えを命じられる。(義弘と領地交換)
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦い。義弘がやむなく西軍で参戦するが敗れる。
1602年(慶長七年) 家督を義弘の子・忠恒に譲る。
1611年(慶長十六年) 大隈・国分舞鶴城で病没。

一口メモ
 島津氏の九州平定戦を実質指揮し、陰で支えた戦略に優れた名将。



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