龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)

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別名、改名、通称 長法師丸(幼名)、中納言、円月、胤信、隆胤、
肥前の熊、五州二島の太守
生没年 享禄二年(1529)~天正十二年(1584)
墓所 佐賀県佐賀市本庄町 高伝寺
ゆかりのお城 佐嘉城、須古城、水ケ江城、三会城、勢福寺城

龍造寺隆信の生涯
 龍造寺隆信は肥前の一国人から一代で、大友氏、島津氏と伍するほどの大勢力を築き、「肥前の熊」と称された。その勢力は、北九州5カ国に及び壱岐・対馬も含め「五州二島の太守」と自ら号したほどである。しかし、島原半島の沖田畷で大軍を擁しながら島津・有馬連合軍に大敗を喫し、隆信自身も乱戦の中、戦死してその生涯を閉じることとなる。



 隆信は、享禄二年(1529)に肥前国・水ケ江城で龍造寺周家の長男として生まれる。幼名は長法師丸といったが、7歳になった天文四年(1535)に大叔父・豪覚のいる宝琳院に預けられ、円月と号した。龍造寺氏は少弐氏家臣だったが、隆信の曾祖父・家兼の活躍により龍造寺氏は勢力を拡大していく。これに危機感を感じた少弐氏の家臣・馬場頼周は、天文十四年(1545)謀略をもって龍造寺氏排除に動く。龍造寺一族の中で家兼は何とか逃げ延びたものの、父・周家や祖父・家純をはじめ一族の主だった者がほとんど討たれ、壊滅状態になってしまう。家兼は翌年再起し、馬場頼周を討ち龍造寺氏を再興する。長年、龍造寺家を支えた家兼はその年に死去。なんと93歳だったといわれる。家兼の遺言により、隆信は還俗して水ケ江龍造寺家を継ぐこととなり、胤信と名乗る。天文十六年(1547)に、龍造寺氏宗家の龍造寺胤栄とともに大内氏の後援を得て、少弐冬久を攻撃し肥前から駆逐する。胤栄が急死すると、隆信が宗家・村中龍造寺の家督も相続することとなる。

 天文二十年(1551)大内義隆陶晴賢の謀反により倒れ、大内氏の後ろ盾を失った隆信は、大友氏の後援を得た土橋栄益(龍造寺氏家臣)の攻撃を受け、一時的に肥前を退去。隆信は、曾祖父が亡命した時と同じく筑後・柳川城主・蒲池鑑盛の庇護を受けた。亡命生活は三年近くに及んだが、天文二十二年(1553)に佐嘉城を奪回し土橋栄益も討ち取ることに成功する。その後も反対勢力の掃討に力をいれ、勢力を拡大していく。隆信の母・慶誾も龍造寺家の家臣だった鍋島清房に嫁いで、当時から器量人として知られた清房の子・信昌(のちの信生・直茂)と隆信の結び付きを強くするなど隆信を支援した。そして、永禄二年(1559)には、勢福寺城の少弐冬久を攻め自害に追い込み、少弐氏を滅ぼす。

 肥前ではこの頃大友宗麟が守護職を獲得して、肥前の国人たちに服属を迫っていた。隆信は表立って大友氏に反抗しなかったが勢力拡大するにつれ、大友氏もその存在を無視できなくなり、対立が避けられない状況になっていく。永禄十二年(1569)、大友軍はついに大軍で肥前に侵攻してくるが、この時は毛利元就が北九州に侵攻してきたため、大友軍は肥前から退却する。毛利軍を撃退した大友宗麟は、元亀元年(1570)、6万もの大軍を率いて肥前に侵入し、隆信の本拠・佐嘉城を取り囲んだ。対する龍造寺軍は、約5千。龍造寺家は存亡の危機を迎えるが、鍋島信生の奇襲攻撃により大友軍の総司令官・大友親貞を討ち取るなど大友軍に勝利した(今山の戦い)。それでも、大友軍の優位は動かず、隆信は結局大友軍に講和を持ちかけ、大友家に形式上従属することになるが本領は安堵された。隆信は、その後も大友家に正面を切って争うことはしなかったが意向には従わず、敵対する肥前の国人領主を攻めて着実に勢力を拡大していった。

 大友氏の傘下に甘んじていた隆信だったが、好機が訪れる。天正六年1578)大友宗麟が日向に攻め入り島津義久耳川の戦いで壊滅的な大敗を喫したのである。隆信はこの時を待っていたかのように、直ちに筑後に攻め入りあっという間に平定。同時に肥後北部の国人たちも帰順させ、さらに筑前の西南部、豊前北部に圧力をかけ次々と大友氏に属していた国人たちを帰順させていった。壱岐の波多氏、対馬の宗氏も帰順してきたため、隆信は誇張気味ではあったが「五州二島の太守」と自ら名乗ったのである。この電撃的な勢力拡大は、大友氏に従属していた国人が勢力の衰えた大友氏を見限り、雪崩を打って龍造寺氏に帰順していったからだが、この地域の国人は強いほうに付くことによって生き延びてきたいう事情もある。よって、龍造寺氏のこれら支配地域の勢力基盤も決して強いものではなかった。

 天正九年(1581)に隆信は家督を長男の政家に譲り須古城に退いたが、実権は握り続けた。天正十年(1582)、島津義久は肥後南部の相良氏を降し、ついに龍造寺氏勢力圏へ北上を開始してくる。肥後方面では互いに譲らず、和議を結ぶこととなるが、かねてより警戒していた島原半島の有馬晴信が離反し島津氏の軍門に降ってしまう。島津義久はこれを機に、戦術面で優れた才を持つ弟の島津家久を島原半島に送り出した。隆信も直ちに兵を集め、3万(一説に6万とも)もの大軍を率いて島原半島に進軍。対する有馬・島津連合軍は約8千で島原半島東岸の沖田畷で待ち伏せた。沖田畷は狭い地域のうえに湿地と田に数本の畦道があるだけという寡兵で大軍を迎え撃つには絶好の地であった。龍造寺軍は大軍にまかせて一気に攻め立て敵兵を蹴散らしていったが、これが島津家久の罠でうまく誘き寄せられてしまっていたのである。龍造寺軍が縦長に伸びきったところで、島津軍鉄砲隊の一斉射撃が前方からと伏兵として潜んでいた側面からも始まり、龍造寺軍先陣部隊がまず崩れ出した。そこに後続部隊次々押し寄せ、狭い道で身動きの取れなくなった龍造寺軍は大混乱に陥った。その機会を逃さず、島津軍は龍造寺軍目掛けて一斉に襲い掛かり、混乱した龍造寺軍はなすすべなく敗走を始めた。この壊滅的大混乱の中、隆信は戦死(沖田畷の戦い)。享年56。この合戦は、隆信のほかにも龍造寺四天王など約2千の戦死者が出たといわれるほどの大敗で、龍造寺家はのちに島津家の軍門に降らざる得ない状況となる。龍造寺家はその後の豊臣政権下では、一族で筆頭家老の鍋島直茂が中心となって政家、高房を補佐し肥前を治めた。そして龍造寺氏宗家断絶後、鍋島氏が佐賀藩主となるのである。



龍造寺家の家紋
「十二日足」
曾祖父:龍造寺家兼

祖父:龍造寺家純

父:龍造寺周家     母:慶誾

子:龍造寺政家、江上家種、後藤家信

孫:龍造寺高房


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龍造寺隆信 関連年表
1529年(享禄二年) 龍造寺周家の長男として肥前・水ケ江城で生まれる。
1535年(天文四年) 宝琳院に預けられ、円月、中納言と名乗る。
1545年(天文十四年) 1月、祖父・家純、父・周家ら一族の者が少弐氏の家臣・馬場頼周に討たれる。
4月、曾祖父・家兼が馬場頼周を討つ。
1546年(天文十五年) 家兼死去。
水ケ江龍造寺家の家督を継ぎ、胤信と名乗る。
1548年(天文十七年) 村中龍造寺家当主・胤栄死去のため、本家も継ぐ。
1550年(天文十九年) 7月、大内義隆より偏諱を受け、隆胤と名乗る。
隆信と改名する。
1551年(天文十七年) 9月、大内義隆、陶隆房(晴賢)の謀反により自害。
10月、龍造寺氏家臣・土橋栄益の謀反により筑後に逃れる。
1553年(天文二十二年) 肥前に帰国し、佐嘉城を取り戻す。
1559年(永禄二年) 勢福寺城を攻め落とし、少弐氏を滅ぼす。
1570年(元亀元年) 鍋島信生(直茂)の活躍により今山の戦いに勝利する。
1578年(天正六年) 大友宗麟耳川の戦い島津義久に大敗する。
1579年(天正七年) 筑後、肥後北部を攻略。
1580年(天正八年) 筑前に侵入。大友氏と和議を結び筑前国九郡を獲得する。
1581年(天正九年) 隠居し須古城に退き、家督を政家に譲る。
1583年(天正十一年) 肥前・日野江城主の有馬晴信が龍造寺氏から離反。
1584年(天正十二年) 沖田畷にて島津・有馬連合軍に惨敗し、戦死(沖田畷の戦い)。享年56。



一口メモ
 隆信は冷酷で残虐非道な一面があり、それが沖田畷の大敗の一因ともいわれている。しかし、島津氏や大友氏と伍するほどの大勢力を一代で築いた手腕や才知はすごいといえる。



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