福知山城(ふくちやまじょう)
別名:福智山城、横山城、臥龍城、八幡城
福知山市史跡、続日本100名城

福知山城天守閣
場所 丹波国
京都府福知山市字内記
築城者 明智光秀、塩見(横山)頼氏
築城年 天正七年(1579)、文亀〜永正年間(1501〜1521)※横山城
主な城主 明智光秀、羽柴秀長、杉原家次、小野木重勝、有馬豊氏、
岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌、朽木氏
主な遺構 大天守(復元)、小天守(復元)、続櫓(復元)、石垣、
井戸、銅門番所、曲輪

歴史背景
 福知山城は天正七年(1579)頃、丹波国を平定した明智光秀によって、旧横山城の地に築かれた城である。光秀は福知山城を丹波北西部の拠点とし、、女婿である明智秀満を城代として置いた。天正十年(1582)、光秀は本能寺の変織田信長を討つが、山崎の合戦羽柴秀吉に敗れてしまい明智家は滅ぼされる。

 山崎の合戦後の論功行賞でおねの伯父である杉原家次が福知山城主として2万石を与えられ、家次は浅野長政とともに京都奉行も務めた。家次が天正十二年(1584)に病死したのちは、小野木重勝が城主となる。

 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると重勝は西軍に与して、東軍に与した細川幽斎が籠る田辺城攻めの主力として周辺の大名らとともに1万5000の兵を率いて城を取り囲み開城させる。しかし、関ヶ原の戦いは東軍が勝利したため、重勝は田辺城から居城である福知山城に退却する。重勝は城に戻るが、居城を攻められ怒り心頭の細川忠興らに城を取り囲まれ開城し、忠興によって自刃させられる。

 関ヶ原の戦い後は、徳川家康に与した有馬豊氏が6万石を与えられ福知山城に入った。豊氏は初代福知山藩主として城を近代城郭に改修し、福知山の城下町を整備した。その後、岡部長盛、稲葉紀通、松平忠房、朽木稙昌と代わり、幕末まで朽木氏が13代約200年間にわたり城主として福知山を統治した。 

大天守閣
三層四階で、1986年に復元

城について
 福知山城は、由良川と土師川の合流点西岸の横山丘陵(標高約40m・幅約100m)に築かれた平山城である。東は法川を利用した大堀、西は堀と土居、南には堀切、北東側は由良川を天然の堀とした城四方を総構えで防御する構造となっている。天守閣は三層四階で昭和61年(1986)に外観復元されて福知山市のシンボルとなっている。近隣に大きな石があまりなかったのか野面積の本丸天守閣の石垣には五輪塔、・宝篋印塔などの石塔が大量に転用されている。現在の城域はあまり広くないが、非常に趣のあるお城である。


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小天守
二層二階で続櫓によって大天守と連結されている


「福知山城」石碑

隅櫓風の福知山市佐藤太清美術館
福知山出身の日本画家佐藤太清の作品を展示

隅櫓と城にかかる橋

橋から見た福知山城天守

登城道

銅門番所(あかがねもんばんしょ)
二ノ丸の登城口にあった銅門の番所で、大正時代に天守台に移され、天守閣の再建で本丸の現在の場所に移築された。


本丸
右側に天守閣、左側に銅門番所

福知山城天守閣復元鯱瓦
福知山市と旧大江町との合併を記念して原寸復元したもの

豊磐の井
本丸の天守東側に位置する井戸で、直径2.5m、
深さは50mで本丸内では日本一を誇るとのこと。

朝暉神社鳥居

朝暉神社
門には朽木氏の家紋

朝暉神社本殿

城門と石垣

本丸東側の楼門

本丸から見た楼門

石塔が転用されている天守閣の石垣

福知山城石垣の転用石
五輪塔・宝篋印塔などの石塔が石垣に転用された。
転用石は天守閣石垣付近に集中していたとのこと。

福知山城石垣の転用石
発掘調査で500個あまり確認されたとのこと。

福知山城天守閣入口

福知山城天守閣入口

天守閣より北側を望む
由良川が見える。

天守閣より東側を望む
由良川と土師川の合流点が見える。

本丸の石垣
野面積みの石垣でなかなか立派だ。

本丸の石垣

本丸の石垣

城東側の斜面
かなりの急斜面となっている。

西側の階段

本丸西側の門

福知山城天守閣から見た伯耆丸跡

左側の丘陵が伯耆丸跡

二ノ丸跡の石垣

二ノ丸跡の石垣

福知山城遠景


福知山城 関連年表
1501〜1521年
(文亀〜永正年間)
塩見(横山)氏が天田郡に移住し勢力を拡大。塩見頼氏が横山城を築城。
1565年(永禄八年) 丹波黒井城主・赤井直正が横山城の塩見氏を滅ぼす。
1575年(天正三年) 織田信長の命を受けた明智光秀が丹波に侵攻を開始する。
1576年(天正四年) 丹波八上城主・波多野秀治の裏切りにより、明智光秀は丹波から撤退する。
1578年(天正六年) 「丹波の赤鬼」と恐れられた赤井直正病死。
1579年(天正七年) 明智光秀が波多野氏の八上城、赤井氏の黒井城を落とし、丹波を平定する。
光秀、旧横山城の地に福知山城を築く。
1580年(天正八年) 光秀、明智秀満を福知山城の城代に任命する。
1582年(天正十年) 6月2日、京都本能寺で光秀が織田信長を討つ。
6月13日、山崎の戦いで光秀軍は羽柴秀吉軍に敗れ、光秀は逃走途中に死亡。
合戦後、福知山城は羽柴秀長の家臣・桑山重晴、青木一矩が管理。
1583年(天正十一年) 杉原家次が福知山城主となる。
1584年(天正十二年) 杉原家次、死去。
1587年(天正十五年) 小野木重勝が福知山城主になる。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦いで西軍に属し田辺城の細川幽斎を攻めた小野木重勝は西軍が敗れたため自害に追い込まれる。
戦後の論功行賞で有馬豊氏が遠江・横須賀が6万石の領主として福知山に入封。
1620年(元和六年) 有馬豊氏が筑後・久留米へ移封となる。
1621年(元和七年) 岡部長盛が丹波・亀山より5万石の領主として福知山に入封。
1624年(寛永元年) 岡部長盛が美濃・大垣へ移封となる。
稲葉紀通が摂津・中島より4万5000石の領主として福知山に入封。
1648年(慶安元年) 稲葉紀通、謀反の疑いがかかり自害する。
1649年(慶安二年) 松平忠房が三河・刈谷より4万5900石の領主として福知山に入封。
1669年(寛文九年) 松平忠房が肥前・島原へ移封となる。
朽木稙昌が常陸・土浦より3万2000石の領主として福知山に入封。
以後、朽木氏が幕末まで福知山を統治。



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駐車場: 福知山城公園観光駐車場
      (60台・無料)



訪問年月::2018年4月


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