鳥取城(とっとりじょう)
別名:久松城
国史跡、日本100名城
場所 因幡国
鳥取県鳥取市東町
築城者 山名誠通 または 山名祐豊
築城年 天文年間[天文十四年(1545)?]
主な城主 山名誠通、武田高信、山名豊国、吉川経家、
宮部継潤、宮部長煕、
池田長吉、池田長幸、池田光政、池田光仲など
主な遺構 西阪下御門(現存)、天守台、石垣、内堀、曲輪

歴史背景
 鳥取城は天文十四年(1545)頃、因幡守護・山名誠通が居城の天神山城の出城として標高263mの久松山に山城を造ったのが始まりとされるが、但馬守護・山名祐豊が築いたとする説もある。

 山名誠通は但馬の山名祐豊に滅ぼされるが、但馬の山名氏から分家として因幡山名氏が再興される。しかし、鳥取城を支配していた因幡山名氏は家臣・武田高信の謀反に苦しめられ鳥取城も奪取される。武田高信は安芸の毛利氏と結ぶなどして鳥取城を拠点に因幡で勢力を拡大していく。鳥取城が因幡支配の中心地となったのは武田高信の時代からといわれている。

 天正元年(1573)になると尼子氏の残党である山中幸盛らの支援を受けた山名豊国が武田高信を鳥取城から退け、天神山城から鳥取城に拠点も移す。その後、豊国は毛利氏に与し立場を守るが、天正八年(1580)織田家武将・羽柴秀吉の鳥取城攻めで豊国は織田氏に降伏する。しかし、降伏に反対する山名氏の重臣、森下道誉や中村春続らは城主の豊国を追放し毛利氏に帰属を決める。そして吉川元春に新城主の派遣を依頼し、吉川経家を鳥取城主に迎えることとなる。天正九年(1581)に秀吉は再び鳥取城を攻め完全包囲し籠城戦となり兵糧攻めを開始する。秀吉は事前に鳥取周辺の兵糧を高値で買い上げさせていたため、鳥取城内では当初から兵糧が不足し雑草から家畜まで食べ、三ヵ月後には人まで食したとまでいわれる凄惨な飢餓地獄となった。世に言う「鳥取城渇殺し」である。毛利方の吉川元春も数度にわたり兵糧の搬入を試みるが、羽柴軍の厳重な警戒に阻まれ兵糧をまったく城内に届けることが出来ず、結局城主である吉川経家は城内の兵や民の助命を条件に自刃して鳥取城は落城した。

 その後、秀吉の与力であった宮部継潤が城代として城を守り、山崎の合戦後に秀吉が中央で力を握ると継潤は正式に鳥取城主となり5万石を領した。

 関ヶ原の合戦で継潤の跡継ぎである長煕は西軍に属したため改易となり、慶長六年(1601)東軍に属した池田長吉(池田恒興の三男)が6万石の領主として入封。長吉は山上の丸の三重櫓を二重の天守に改修し、麓も近世城郭へ大改修を行い現在みられる城跡の基礎が出来上がった。

 元和三年(1617)池田光政(池田輝政の嫡孫)が32万5千石で入封。光政の時代に山下を流れる袋川を南に移し城下町を拡張して整備が行われた。寛永九年(1632)光政は備前岡山領主でいとこの池田光仲と領地替えとなり、光仲が鳥取城主となる。以後、光仲の家系が鳥取池田家として明治まで藩主となる。

西阪下御門
鳥取城に残る唯一の現存建築物で、二ノ丸と丸ノ内を仕切る。

二ノ丸の石垣群で正面上段が御三階櫓跡の石垣

史跡鳥取上跡附太閤ヶ平の碑

吉川経家像
秀吉に攻められた時の鳥取城主。
残った兵と民の助命を条件に開城し、落城の責任を取り自刃。

城について
 鳥取城は標高263mの久松山に築かれた山城であるが、江戸期は山麓の天球丸、二ノ丸、三ノ丸が中心となった。山頂付近が山上之丸で戦国期にはこちらが中心であり、本丸や天守台跡、石垣などを見ることができるので、ぜひ登ることをおすすめしたい。山麓に残る総延長400mにも及ぶ石垣は江戸期のもので、その規模は32万石の大名にふさわしい偉容を誇っていて、保存状態もなかなかよく見ごたえがある。山上の天守は元禄五年(1692)の落雷で消失して以後、再建されず麓の二ノ丸の御三階櫓がその代わりとなったが、現在は石垣が残るのみである。現存する構築物は二ノ丸と丸ノ内を仕切る西阪下御門のみだけだが、石垣だけで十分楽しめるお城である。


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内堀

内堀

御三階櫓跡

御三階櫓跡の石垣

御三階櫓跡石垣の遠景

仁風閣(国指定重要文化財)
鳥取池田家第十四代当主・池田仲博侯爵が、宮内省匠頭・片山東熊
工学博士(赤坂離宮などを設計)に設計を依頼し明治40年5月に建てられた。
仁風閣の名は海軍大将・東郷平八郎が命名。

二ノ丸の左手にある登り石垣

二ノ丸に登る石段

二ノ丸西側と石垣
二ノ丸は藩主の居館場所であった。

菱櫓跡
平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、
櫓も菱形だった。二層の櫓で東南隅に建ち、西南隅に建つ
三階櫓とともに鳥取城を代表する建物だった。

天球丸の石垣

天球丸の石垣
よく整備されている。

表御門跡
二ノ丸から天球丸に行くところにあった門。

山上ノ丸への登城口

山上ノ丸への登山道

山上ノ丸の石垣
頂上の石垣としては大規模である。

山上ノ丸の石垣
けっこう崩れている箇所もある。

山上ノ丸の階段
山上ノ丸は山頂部を数段に切り開いて構築されており、
所々に石垣が見られ、堅固な造りとなっている。

本丸跡
往時には天守櫓・著見櫓・多聞櫓それをつなぐ走櫓などがあり、
御天守奉行がこれを守っていた。

本丸の車井戸
池田長吉が鳥取城を大改築した時に掘った井戸と伝わる。

天守台
池田長吉が三重櫓を二重の天守に改築。
しかし、元禄五年(1692)の落雷で消失し、以後再建されなかった。

山頂からの眺め
山頂からは、鳥取砂丘をはじめ鳥取市内を一望できる。

北ノ御門跡
元々は大手門だったが、池田長吉の大改修により
搦手門となったといわれる。

三ノ丸跡
現在は鳥取西高校敷地内となっている。


鳥取城関連年表
1545年(天正十四年) この頃、久松山に山名氏が城を築いたとされる。
1562年(元禄五年) 因幡山名氏が家臣・武田高信の謀反により鳥取城を奪われる。
1573年(天正元年) 尼子氏の残党の支援を受けた山名豊国が武田高信を鳥取城からしりぞけ、本拠とする。
1580年(天正八年) 羽柴秀吉が鳥取城に侵攻し、山名豊国は降伏し追放される。
1581年(天正九年) 秀吉が再び鳥取城を取り囲み、籠城戦のすえ城主の吉川経家は開城し切腹。
(鳥取城渇殺し)
1582年(天正十年) 秀吉の家臣である宮部継潤が鳥取城主となる。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦い後、池田長吉(池田輝政の弟)が鳥取城主となる。
1617年(元和三年) 池田光政が鳥取藩主となる。
1632年(寛永九年) 池田光仲が鳥取藩主となる。
以後、光仲の家系が鳥取池田家として明治まで鳥取城主。


鳥取城跡案内図(現地案内板より)


鳥取城 周辺地図 スポンサーリンク


<入城料>
なし
<アクセス>
JR鳥取駅
からバスで約8分「西町」下車。
そこから徒歩約5分

駐車場

駐車場あり(有料)
<リンク>
鳥取市観光コンベンション協会




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