山中幸盛(やまなか ゆきもり)
尼子氏家臣
別名・改名、通称 甚次郎、鹿介(鹿助)、鹿之助
生没年 天文十四年(1545)?~天正六年(1578)
墓所 岡山県高梁市落合町 阿井の渡し
広島県福山市鞆の浦 静観寺
鳥取県鳥取市鹿野町 幸盛寺
ゆかりのお城 月山富田城、上月城、白鹿城、鳥取城、信貴山城
伯耆尾高城、因幡新山城

山中鹿介の生涯
 山中鹿介は、尼子氏が滅んだ後も尼子氏再興に生涯をかけた忠臣として知られる。尼子氏再興のために毛利氏とは生涯戦い続けるが、最期は捕まり討たれた。主家再興を願い、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に向かって祈ったエピソードはあまりにも有名。



 鹿介は、天文十四年(1545)山中満幸の次男として月山富田城下で生まれた。次男のため当初亀井家の養子となるが、山中家の家督を継いだ兄、幸高が病弱だったため山中家の家督を継ぐこととなる。山中家は尼子氏の一族だったため、鹿介も重用された。武芸に秀でていた鹿介は永禄三年(1560)16歳の時の初陣において、伯耆尾高城で山名軍と戦い相手方武将・菊池音八を討ち取るという快挙を成し遂げる。しかし、主家・尼子氏は晴久が病没して以降、義久が継いでからは毛利元就の侵攻に悩まされ、次第に勢力が衰えていく。そしてついには、永禄八年(1565)尼子氏の本拠・月山富田城が毛利の大軍によって包囲されてしまう。当初、毛利軍は力攻めを行い三方向から富田城に侵入を試みるが、尼子軍が撃退する。この戦いで、鹿介は高野監物を討ち取った。さらには後日、豪傑で知られた毛利方の益田氏家臣・品川大膳を討ち取って毛利方にもその名を知らしめた。堅城・富田城の前に毛利軍は力攻めを断念し兵糧攻めに切り替え、城を完全包囲した。富田城の尼子軍は、毛利軍の大軍の前に討って出ることもできず、次第に兵糧も底をついて城兵も次々と逃げ出していった。鹿介は、最後まで城に残り抵抗したが、主君・義久は永禄九年(1566)毛利に降伏することとなり戦国大名尼子氏は滅んだ(月山富田城の戦い)。毛利家は義久ら尼子一族の命は保証し安芸に搬送することとなる。それに伴い尼子家臣は四散することになり鹿介はいったん浪人になってしまう。

 尼子氏再興に燃える鹿介、立原久綱らは、永禄十一年(1568)京都東福寺で僧となっていた尼子勝久(新宮党・尼子誠久の子)を擁立し、尼子再興軍の旗頭とした。翌年には、出雲に侵入し尼子旧臣を呼び集め、占領地域を拡げていくが毛利軍が守る月山富田城は、どうしても落とすことができなかった。そうこうするうちに毛利軍主力が尼子再興軍を討伐するため出雲に進軍してきたため、尼子軍は布部山で迎え撃った。序盤こそ地の利を得て尼子軍が優勢に戦を進めるが、毛利軍の吉川元春が別働隊を組織し奇襲してきたため尼子軍は総崩れとなってしまう(布部山の戦い)。布部山の大敗により尼子軍の衰退は顕著となり、鹿介は伯耆末吉城に籠もるが吉川元春に捕らえられてしまう。さらに、尼子再興軍最後の拠点・因幡新山城も落城。捕らえれた鹿介は、腹痛を装い厠を往復して監視の兵を油断させ、何とか脱出に成功した。

 いったん京に逃れた尼子勝久、鹿介ら主従は、毛利に対抗するため、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった織田信長を頼った。信長からたいした援助を得ることができなかったが、元亀三年(1573)、尼子再興軍は山名氏と結び因幡地方で毛利方の武田高信と戦い鳥取城を落とすなど勢力を拡大させた。しかし、山名豊国が毛利氏と和睦したため、徐々に形勢不利となり再度山陰から撤退を余儀なくされる。

 それでも尼子氏再興、毛利氏打倒に燃える鹿介は、織田軍に従い、信長に反旗を翻した松永久秀籠もる信貴山城攻めに参加し武功を立て信長の信任を得ることに成功する。そして、勝久、鹿介ら尼子軍は信長より羽柴秀吉率いる中国方面軍に組み込まれ、秀吉が落とした最前線の城である播磨・上月城の守備を命じられる。当然、織田軍の最前線である上月城を毛利軍も狙い、天正六年(1578)4月、3万ともいわれる大軍で城を取り囲んだ。秀吉も急ぎ救援に駆けつけ高倉山(兵庫県佐用町)に陣を張るが、毛利軍が大軍のため、なかなか手出しが出来なかった。その後、三木城の別所長治が織田家に反旗を翻したため、信長は秀吉に三木城攻めを命じた。秀吉は、仕方なく6月26日、高倉山より陣を引き三木城攻めに向かい、尼子軍籠もる上月城は孤立してしまう。そして、ついに7月5日、勝久は毛利軍に降伏し城兵の命と引き換えに自刃。鹿介は、捕らえられ毛利輝元のもとへ護送される途中、阿井の渡し(備中・高梁川)で斬殺されてしまう。吉川元春または毛利輝元の命令ではないかといわれている。享年34歳。

月山富田城の太鼓壇に建つ山中幸盛像

月山富田城下にあった山中家屋敷跡
鹿介はここで誕生した


尼子氏家紋
父:山中満幸

母:立原綱重の娘

子:山中幸元、山中幸範

兄弟:山中幸高(兄)


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山中鹿介 関連年表
1545年(天文十四年) 山中満幸の次男として月山富田城下で生まれる。(異説有り)
1560年(永禄三年) 尼子晴久死去。義久が跡を継ぐ。
伯耆尾高城の戦いで菊池音八を討ち取る。
1565年(永禄八年) 毛利元就月山富田城を攻められる。この戦いの最中、高野監物、品川大膳を討ち取る。
1566年(永禄九年) 毛利元就に月山富田城を落とされ、尼子氏滅亡する。
1568年(永禄十一年) 叔父・立原久綱、横道正光らとともに京で僧となっていた尼子勝久を擁立し、隠岐に渡る。
1569年(永禄十二年) 兵を集め隠岐より出雲に上陸し、毛利家主力が北九州で大友氏と争っている間に乗じて尼子旧領を回復していくが、毛利家武将・天野隆重が籠もる月山富田城は落とせず。
1570年(元亀元年) 布部山の戦いで尼子軍、毛利軍に敗れる。以降、尼子軍劣勢となる。
1571年(元亀二年) 6月、毛利元就死去。
6月、末吉城落城し、吉川元春に捕らえれる。のち、隙をついて脱出。
8月、尼子再興軍最後の拠点・新山城落城。
1572年(元亀三年) 山名氏と協力して因幡で兵を挙げる。以後、二年ちょっと因幡・伯耆で戦う。
1575年(天正三年) 毛利軍の進撃により、尼子再興軍は山陰より撤退を余儀なくされる。
1577年(天正五年) 織田軍の松永久秀籠もる大和・信貴山城攻めに参戦。
織田家より尼子軍に播磨・上月城の守備をまかされる。
1578年(天正六年) 毛利の大軍に上月城が包囲され、落城。主君・尼子勝久自害。
鹿介、備中・阿井の渡しで討たれる。

戦国時代屈指の堅城だった月山富田城跡

尼子軍最後の地となった上月城遠景

上月城跡にある尼子勝久追悼碑

上月城跡にある山中鹿介の碑

鹿介が最期に討たれた高梁川の阿井の渡場の近くにある墓

現在の高梁川阿井の渡し近辺

鹿介の墓のある鳥取県鹿野町の幸盛寺玄関口

幸盛寺の山中鹿介の墓

一口メモ
 鹿介は、裏切りや強い側に味方するのが当然の当時の戦国武将としては珍しい忠臣だった。武勇と器量の備わっていた鹿介なら他家に仕官すれば、それなりの待遇で迎えられたと思われるが、鹿介は尼子氏再興に生涯こだわり、執念をみせた。その執念は、実らなかったが現在でもその名を轟かせている。



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