長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)
長宗我部家第21代当主
別名・改名・通称 弥三郎(幼名)、土佐の出来人、姫若子
官位・役職 宮内少輔、土佐守、侍従
生没年 天文八年(1539)~慶長四年(1599)
墓所 高知県高知市長浜 天甫寺山中腹
ゆかりのお城 岡豊城、浦戸城、白地城、大高坂城(高知城)、朝倉城、長浜城

長宗我部元親の生涯
 長宗我部元親は、土佐の一豪族から土佐を統一、さらに一時は四国を統一し、「土佐の出来人」といわれた名将である。しかし、豊臣秀吉四国征伐に屈し、土佐一国のみの領有となる。半農半兵の一領具足を積極的に活用したことでも知られる。



 元親は、天文八年(1539)に土佐の有力国人・長宗我部国親の嫡男として、土佐岡豊城で生まれる。若い頃は色白で物静かな性格で部屋にこもって書物ばかり読んでいたため、「姫若子」と家臣たちにも揶揄されていた。しかし、永禄三年(1560)に22歳という遅い初陣ながら、父・国親に従って宿敵・本山氏と戦い、目覚しい戦いぶりを見せ周囲を喜ばせた(長浜の戦い)。この初陣のすぐ後に父・国親が亡くなり元親が長宗我部家を継ぐこととなる。

 長宗我部家当主となった元親は、着々と力をつけ永禄五年(1562)に本山氏から朝倉城を奪取し、翌年には中央との結びつきを強めるため斉藤利三明智光秀家臣)の妹(石谷氏女)を娶った。さらには、父・国親が香宗我部家に三男・親泰を養子に出したように、弟・親貞を吉良家に送り込み跡を継がせた。そして、永禄十一年(1568)ついに宿敵である本山氏を滅ぼし、翌年には東土佐の雄・安芸国虎を攻め滅ばした。土佐中央、東部を手に入れた元親は、土佐西部にも攻勢をかけて津野氏を降し、三男・親忠を養子として送り込んだ。天正二年(1574)には、中村城を拠点として土佐西部に勢力を張っていた一条兼定が内乱によって豊後に追放されると、その混乱に乗じて中村城を占拠した。翌年、兼定が大友宗麟の助力によって再起を図り、土佐に侵攻してくるが、弟・親貞や猛将・福留儀重などの活躍により四万十川下流域で一条軍を撃破(四万十川の戦い)。これにより、一条家の求心力は一気に弱まり、今まで一条家に味方していた豪族は次々と長宗我部家に帰順してきたため、元親はついに土佐統一を果たすのである。

 土佐統一を果たした元親は、四国統一を目指して阿波・伊予・讃岐へと侵攻を開始する。この際には、中央で勢力を拡大していた織田信長に対して同盟を結び、四国切り取り自由の約束を取り付ける事に成功する。信長はこの時、元親のことを「鳥無き島の蝙蝠」と揶揄しており、ほとんど眼中になかったようだ。元親はまず、阿波東南部に侵攻し次々と城を落としていき、さらに吉野川上流域にあたる阿波西部の白地城を大西氏から奪取し、そこを四国統一の拠点とした(白地城は、四国四カ国に通じる交通の要衝で、しかも山々に囲まれた要害の地であった)。しかし、吉野川下流域や伊予では、さすがに三好氏や伊予国豪族の抵抗が激しく一時戦線は膠着した。天正六年(1578)、長宗我部軍は讃岐に侵攻すると、西讃岐を支配する香川氏を圧倒し、元親は次男の親和を養子として送り込み事実上乗っ取った。元親は四国統一のため、さらに軍を進めるが、武田家を滅ぼし天下統一の見えてきた織田信長が三男・信孝を総大将とした四国征伐軍を編成したため、元親は危機を迎えることとなる。だが、この四国征伐軍は本能寺の変で信長が倒れ、四国に渡ることはなかったため、元親は危機を脱することができた。そして、この絶好の機会を逃さず、織田家の支援を受けて長宗我部軍に対抗していた十河存保を中富川で撃破し、阿波から三好家の勢力を一掃した(中富川の戦い)。天正十二年(1584)には、讃岐十河城、虎丸城を落とし、十河存保を讃岐から追い払い讃岐国を平定。残るは伊予のみとなり、元親は伊予侵攻を本格化させ、西園寺氏や河野氏を降伏に追い込み、天正十三年(1585)四国統一の悲願を果たす。しかし、長宗我部家の栄華は、豊臣秀吉の四国征伐によって一瞬にして崩れ去る。

 天正十三年(1585)6月、豊臣秀吉は長宗我部氏征伐のため弟・秀長を総大将にして10万の大軍を四国に派遣した。元親は、阿波・白地城を拠点として豊臣軍に対抗するが、豊臣軍の大軍の前に長宗我部軍は各地で敗れ、戦が始まってからわずか2ヶ月ほどで秀吉に降伏。長宗我部家は伊予・阿波・讃岐の3カ国を秀吉に没収され、土佐一国のみ安堵された。

 豊臣傘下となった長宗我部家は、天正十四年(1586)秀吉に九州大友氏の援軍として仙石秀久を軍監とする先鋒隊への従軍を命じられ、元親は嫡男・信親とともに豊後に渡った。豊後に渡った豊臣軍は大友家を苦しめる島津軍と戸次川で対決することとなる(戸次川の戦い)。豊臣軍は敵方総大将・島津家久の術中にはまり、大敗を喫し、長宗我部軍も壊滅してしまい、元親自身こそ命からがら逃げ延びることができたが、嫡男・信親をはじめ多くの有能な家臣を失ってしまう。将来を嘱望していた嫡男・信親を失った元親の落胆ぶりはひどく、これより先の元親は人が変わったようになったといわれる。

 この後も豊臣傘下の大名として小田原征伐朝鮮出兵などにも従軍するが、晩年は四男・盛親を後継者とするため反対派を粛清するなど暴君の一面も見せた。関ヶ原の役前の慶長四年(1599)、元親は病を患い伏見で亡くなる。享年61。  



長宗我部家の家紋
「七つ酢漿草家紋」
祖父:長宗我部兼序

:長宗我部国親

:長宗我部信親、香川親和、津野親忠、長宗我部盛親

兄弟:吉良親貞、香宗我部親泰、島親益


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長宗我部元親 関連年表
1539年(天文八年) 土佐岡豊城主・長宗我部国親の子として生まれる。
1560年(永禄三年) 長浜の戦いで初陣を飾り、活躍する。
国親死去。長宗我部家の跡を継ぐ。
1563年(永禄六年) 弟・義貞が吉良家を継ぐ。
1568年(永禄十一年) 本山氏を降伏させ滅ぼす。
1569年(永禄十二年) 安芸氏を攻め滅ぼす。
1571年(元亀二年) 津野氏を降伏させ、養子として親忠を送り込む。
1574年(天正二年) 中村城主・一条兼定が豊後に追放される。
1575年(天正三年) 四万十川の戦いで一条兼定を破り、一条家を滅ぼす。(土佐統一
1576年(天正六年) 弟・吉良親貞死去。
阿波・白地城を大西氏から奪う。
1578年(天正六年) 次男・親和が讃岐・香川氏の養子となる。
1582年(天正十年) 本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる。
中富川の戦いで十河存保を破る。(阿波平定
1584年(天正十二年) 讃岐・十河城、虎丸城を落とし、十河存保を畿内へ追いやる。(讃岐平定
1585年(天正十三年) 伊予・西園寺氏、河野氏を降し、四国統一を果たす。
6月、豊臣秀吉による四国征伐が始まる。
8月、元親、秀吉に降り、土佐一国のみ安堵される。
1586年(天正十四年) 戸次川の戦いで嫡男・信親を失う。
1587年(天正十五年) 秀吉より羽柴姓を賜る。
1588年(天正十六年) 居城を岡豊城から大高坂城に移す。
1590年(天正十八年) 小田原攻めに水軍を率いて参加し、伊豆・下田城を攻撃する。
1591年(天正十九年) 居城を大高坂城から浦戸城に移す。
1592年(文禄元年) 朝鮮出兵(文禄の役)に従軍する。
1596年(慶長元年) サン・フェリペ号事件勃発。
1597年(慶長二年) 朝鮮出兵(慶長の役)に従軍する。
1599年(慶長四年) 京・伏見で病死。

若宮八幡宮に建つ元親初陣の像
長浜の戦いで初陣を飾った元親は、若宮八幡宮の社頭に陣を張り、戦勝を祈願したといわれている

若宮八幡宮にある馬防柵
浦戸城に立て篭もった本山茂辰軍を封じ込めるため、長宗我部軍は若宮八幡宮から海岸線まで馬防柵を設けた。

桂浜から見た元親晩年の居城・浦戸城跡

長宗我部軍の中枢を担った一領具足の像(高知城内)

一口メモ
 四国に強い勢力が存在しなかったといっても、四国を統一するいう偉業を成し遂げている元親は、やはり戦国時代を代表する英雄の1人である。




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