武田信玄(たけだ しんげん)
甲斐源氏 武田家第19代当主
別名、改名、通称 武田晴信、太郎、勝千代(幼名)、甲斐の虎
官位 大膳大夫
生没年 大永元年(1521)〜天正元年(1573)
墓所 山梨県塩山市小屋敷 恵林寺
山梨県甲府市岩窪町 圓光院武田信玄公廟所
長野県佐久市岩村田 竜雲寺
和歌山県伊都郡高野町 高野山  
ゆかりのお城 躑躅ヶ崎館、深志城、海津城、高遠城、野田城、戸石城、小田原城

武田信玄の生涯
 清和源氏の流れをくむ新羅三郎(源義光)を始祖とする名門甲斐源氏武田氏の十九代当主である信玄は、甲斐の虎と周辺の国々に恐れられた、戦国時代を代表する大名の一人である。風林火山の軍旗を用い、戦国最強といわれた家臣団と騎馬軍団を率いて最盛期には甲斐、信濃、駿河、西上野のほぼ全域、遠江、三河、美濃、飛騨、越中の一部にまで勢力がおよび京を目指すが、上洛途中で病没してしまう。今でも、非常に人気の高い戦国大名である。



 信玄は、甲斐守護、武田信虎の長男として大永元年(1521)11月3日、積翠寺(要害山城)に生まれた。そして、天文五年(1536)に十六歳で元服し、初陣で佐久地方の海ノ口城を信玄の策略により、落としている(甲陽軍鑑)。しかし、信虎はこの功を認めようとはしなかったようだ。この頃にはすでに、信虎は長男の晴信(信玄)を嫌っており、次男の信繁を寵愛していて、晴信の廃嫡さえ考え始めていた。信玄もまた廃嫡されるのを察知して、重臣の板垣信方甘利虎泰飯富兵部らと共謀して、天文十年(1541)、ついに父信虎を駿河の今川義元のもとへ追放する。

 武田家当主となった信玄がまず最初に目をつけたのが諏訪頼重が治める諏訪地方である。当主となった翌年天文十一年(1542)には、諏訪頼重の上原城を攻略し、信州諏訪地方を領有する(頼重は甲府にて切腹)。そして天文十四年、高遠頼継の高遠城、藤沢頼親の福与城を攻略。さらには大井貞清を内山城に攻めて降す。これにより、諏訪、高遠、上伊那地方を手に入れる。

 信玄は天文十六年(1547)、家臣団の統制、民政の基本方針を示した五十五ヶ条(のち五十七ヶ条)から成る「甲州法度之次第」を定めると、佐久地方の志賀城(城主笠原清繁)を攻める。この時、関東管領上杉憲政が佐久に援軍を送るが武田軍は小田井原で破り、志賀城も落とす。(佐久地方攻略)

 翌天文十七年(1548)、北信の猛将村上義清を攻める。両軍は上田原(現在の上田市)で激突するが、武田方は重臣の板垣信方、甘利虎泰をはじめ才間河内守、初鹿野伝右衛門らが戦死したほか、信玄自身も負傷する武田の負け戦となる。この戦が信玄にとって、初めての負け戦となったのである。この後、小笠原長時塩尻峠の戦いでは圧勝するのだが、またもや村上方の堅城戸石城攻めで村上義清に背後を衝かれ、武田軍は敗れてしまう(横田備中守高松戦死)。この武田の敗戦を戸石崩れという。だが天文二十年(1551)、武田の家臣となっていた真田幸隆が計略によって戸石城の将兵を内応させてほぼ無傷で城を乗っ取るのである。さらに真田幸隆は計略を駆使し、村上方の豪族が続々と武田方に内応させ、村上義清の勢力を弱めることに成功する。天文二十二年(1553)、信玄は村上義清討伐の兵を起こし、葛尾城を目指すが、義清は越後の上杉謙信を頼って自ら城を捨てて逃れる。義清は猛将ではあったが、結局武田方の計略になすすべがなかったのである。

 村上義清が越後の上杉謙信を頼ったことにより、ますます武田と上杉の衝突は避けられないものとなり、5回にもわたる川中島の戦いが繰り広げられることとなる。この中でもっとも有名で激戦となったのが永禄四年(1561)の第四回川中島の戦いである。武田軍2万に対し、上杉軍1万3千。武田領深くの妻女山に陣取った謙信に対し、信玄は山本勘助が発案したといわれるキツツキ戦法を採用する。2手に兵を分け、別働隊1万2千(高坂、飯富、馬場、真田など)がひそかに、妻女山の越後勢を奇襲に向かい、信玄本隊は八幡原へ進出した。だが、戦の天才上杉謙信は、海津城の炊煙の多さから武田の動きを察知し、これまたひそかに夜陰と濃い霧に乗じて山を下り、八幡原に陣を敷くのである。出し抜かれた武田本隊は、上杉勢の突然の出現に当初は浮き足立つも必死に抵抗する。だが次第に押し込まれ弟の武田信繁諸角昌清、軍師山本勘助などが戦死し、大きな被害を受ける。武田軍本隊は12隊のうち9隊がくずれ敗色濃厚となるも、昼前には別働隊が到着し攻守逆転となり、上杉軍も大打撃を受け敗走する。前半は上杉謙信が勝ち、後半は武田信玄の勝ちと甲陽軍鑑は記している。

 謙信と北信で争っている間にも信玄は、天文二十三年(1554)には、今川義元、北条氏康と駿河の善徳寺で三国同盟(善徳寺同盟)を結び、後顧の憂いを断っている。また信玄は特産物の増産や鉱山の開発((特に金山)、信玄堤で有名な治水工事などを行い、国力の増強に努めた。このように信玄は外交や領国経営にも優れた手腕を発揮し、甲州軍の力を増強していったのである。
 永禄九年(1566)、西上野を手に入れると、今川氏真の駿河に目をつける。しかし、今川から妻をもらっていた嫡男の武田義信が今川領駿河を攻略することに大反対する。それでも駿河攻略の意思の変わらない信玄に対して、義信は謀反を企てる。もともと信玄は四男の勝頼を溺愛しており、義信は廃嫡の恐れも抱いていた。それがこの駿河を攻略しようとする信玄への不満が爆発したといえる。謀反自体は未遂に終わり、義信は幽閉(のちに自害)され、傅役の飯富虎昌も切腹となった。

 信玄にとって大きな事件であったが、長年宿願であった海のある駿河攻略を永禄十一年(1568)に開始する。そして、元亀二年(1571)頃にはほぼ駿河を占領し、徳川家康の遠江、三河をも脅かし始める。そして、その年の暮れには、信玄の駿河攻めにより疎遠になっていた北条氏(氏康の遺言により)とも同盟関係を復活させた。さらには、信玄は近畿地方を制していた織田信長の包囲網を敷き、一方で上杉謙信に対しては海津城を高坂弾正昌信に数千の兵を授け、越中の一向一揆、常陸の佐竹義重などに牽制させ、上洛の準備を着々と進めるのである。元亀三年(1572)十月、信玄はついに京を目指して三万の兵を率い、甲府を出発する(九月下旬には山県昌景率いる別働隊五千が出発している)。

 遠江に入ると武田軍はまず二俣城を落とし、勢いに乗り家康の本拠浜松城にせまる。徳川軍は数に劣ったため家康は篭城の構えだったが、信玄にまんまと誘い出され世に名高い三方ヶ原の合戦となるのである。武田軍三万五千に対し徳川軍1万1千(織田の援軍3千含む)。野戦に誘い出した時点で徳川軍の三倍の兵力を誇る武田軍の勝利は決まったようなもんであった。戦いは武田軍の圧勝に終わり、武田の戦死者4百に対して徳川軍は戦死者千二百で家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰る始末であった。

 勢いに乗る信玄は三河の野田城を攻め落とすが、かねてより患っていた病を再発。信濃に軍を引き上げる途中、伊奈谷の駒場で上洛の夢かなわず息をひきとる。享年53。

時世の句は「大抵還他肌骨好(たいていはたのきこつのよきにかえろ)不塗紅粉自風流(こうふんをぬらずしておのずからふうりゅう)」

遺言は「3年間自らの死を隠すこと」「上杉謙信との和睦」「織田信長には十分注意をすること」などといわれている。
また、重臣の山県昌景には「いつかは武田の旗を瀬田(近江国西南端で京の玄関口にあたる)に立てよ」と言い残している。
武田信玄の名言

武田家の家紋
「武田菱」
父:武田信虎

子:長男 武田義信     次男 海野信親    三男 武田信之
   四男 武田勝頼    五男 仁科盛信     六男 葛山信貞

孫:武田信勝など

兄弟:武田信繁、武田信廉、一条信龍など  
武田信玄が軍旗として用いた
「風林火山」の孫子の旗


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武田信玄 関連年表
1521年(大永元年) 甲斐守護武田信虎の長男として生まれる。
1541年(天文十年) 父信虎を駿河の今川家へ追放して武田家当主となる。
1542年(天文十一年) 信濃諏訪郡を領する諏訪頼重の上原城を攻め勝利し、後に頼重を切腹させる。
1547年(天文十六年) 信玄、「甲州法度之次第五十五ヶ条」を定める。
1548年(天文十七年) 上田原の戦いで村上義清に敗れ、板垣信方、甘利虎泰ら討ち死にする。
塩尻峠の戦いで小笠原長時を破る。
1550年(天文十九年) 村上義清方の戸石城を攻めるが断念し、退却途中に義清軍に追撃され大損害をこうむる(戸石崩れ)。
1551年(天文二十年) 配下の真田幸隆が戸石城を陥れる。
1553年(天文二十一年) 小笠原長時、武田の侵略に耐え切れず、越後の上杉謙信を頼る。
1554年(天文二十二年) 今川義元北条氏康甲相駿三国同盟を結ぶ。
村上義清の葛尾城を攻めるが、義清は戦わずして上杉謙信を頼る。
上杉謙信が川中島へ進出し、川中島の戦い(第一回)となる。
1561年(永禄四年) 武田軍、上杉軍両軍の主力が激突し、弟信繁などが討ち死にする(第四回川中島の戦い)。
1566年(永禄九年) 上野の箕輪城(城主長野業盛)を攻略し、西上野を手中にする。
1567年(永禄十年) 長男・義信、謀反の疑いで切腹し、連座で飯富虎昌も自刃。
駿河の今川氏真に甲斐への塩の輸送を止められる。
1568年(永禄十一年) 今川領駿河へ侵攻し、駿府を占領。
1569年(永禄十二年) 北条氏の小田原城包囲するが退却。退却時、国境付近で北条軍に待ち伏せされるが無事突破する(三増峠の戦い)。
1572年(元亀三年) 三方ヶ原の戦い徳川家康に勝利する。
1573年(天正元年) 信濃の駒場にて53歳で生涯を閉じる

1口メモ
戦国最強といわれた武田軍だが、信玄は戦わず勝つを上策とし、なるべく戦わず策略や威をみせつけて領土を拡大していった。しかし、跡継ぎの勝頼は信玄を見習わず、戦うことによって敵味方に自分の力を誇示しようとしたため、戦続きとなり国が疲弊し、やがて武田家も残念なことに滅んでしまったのは残念。(時代の流れでもあるが・・・)




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