直江兼続(なおえ かねつぐ)
上杉家家臣

直江兼続像(米沢市上杉博物館蔵)
別名、改名、通称 樋口与六、直江山城守、直江重光
官位 従五位下、山城守
生没年 永禄三年(1560)〜元和五年(1619)
墓所 山形県米沢市林泉寺 林泉寺  
ゆかりのお城 米沢城、春日山城、会津若松城、長谷堂城、坂戸城、与板城

直江兼続の生涯
 直江兼続は、上杉景勝の股肱の臣として活躍した智勇兼備の名将として知られる。豊臣秀吉からは、「陪臣ながら天下の仕置が出来る人物の1人」と評されたとされ、非常に器の大きい人物であったと思われる。関ヶ原の戦いの発端となった会津遠征を徳川家康に決意させた直江状は有名である。関ヶ原の戦い後は、上杉家の存続に尽力し、内政に力を注いだ。



 兼続は、永禄三年(1560)に坂戸城主・長尾政景の家臣・樋口兼豊の長男として生まれる。父は身分が低かったが、兼続自身は容姿端麗で非常に聡明であった。そのため、長尾政景の正室であり上杉謙信の姉である仙桃院の目に留まり、上杉景勝(長尾政景の子)の小姓に取り立てられる。以後、兼続は、景勝に生涯仕え、補佐していくこととなる。

 天正六年(1578)、上杉謙信が跡継ぎをはっきり決めないまま急死したため、共に養子である景勝と上杉景虎北条氏康の子)の間で跡目争いが起こる。この内乱を御館の乱(おたてのらん)という。最終的には景勝が勝利し、兼続も大いに貢献したと思われる。上杉家の家督を継いだ景勝は、兼続に名門・直江家の名跡を継ぐことを命じる。景勝の側近であった直江信綱がトラブルのため殺害されていたため、直江家は、跡取りのいない状況にあり、兼続が信綱の妻・お船の方の婿養子となったのである。兼続とお船の方は、生涯仲良く、兼続は側室をもつことはなかったという。

 上杉家の当主となった景勝であったが、内乱の影響により越後の国力は著しく低下していた。さらに、中央の織田信長が勢力を伸ばしてきており、上杉家は、危機的状況であった。しかし、運が良いことに織田信長は、京の本能寺にて急死し、上杉家は危機的状況を回避することが出来た。さらに、北信濃の一部も手に入れることになる。

 中央では、信長に代わって勢力を伸ばしてきたのが秀吉で、上杉家は秀吉に従うようになる。兼続が能力を発揮したのがこの豊臣政権との交渉で、ほとんど兼続が担当するようになる。豊臣方では、石田三成が担当し、交渉の過程で兼続と三成は親密なっていく。天正14年(1586)、景勝と兼続は秀吉に会うため上洛すると、景勝が従四位下・左近衛少将に、兼続が従五位下にそれぞれ任じられた。その後、佐渡征伐小田原征伐朝鮮出兵などで景勝に従い、参謀として活躍を見せる。そして、豊臣政権下で、景勝は五大老にまでのぼりつめることとなり、越後92万石から会津120万石に加増される。また、兼続も陪臣ながら米沢30万石(寄騎を含めて)を与えられている。

 慶長三年(1598)、秀吉が死去すると、徳川家康が天下取りの野望をあらわにし、次々と手を打っていく。これに石田三成は対抗するが、失脚。さらに前田利長は、徳川家に屈し、家康の次の標的は上杉家になる。家康は、景勝に対して謀反の疑いをかけ、弁明のために上洛するよう命じてきたのである。あらぬ疑いをかけられた上杉家は、兼続が世にいう「直江状」と呼ばれる返書を家康に送った。上杉家の正当性を説き、家康に対して挑戦状ともとれる内容の文面で武門を重んじる上杉家の意地を示したものであった。この返書を読んだ家康は激怒し、会津征伐を決行する。兼続と景勝は、綿密に家康を迎撃する作戦を練っていたが、三成が上方で挙兵したため、家康は引き返してしまう。この時、兼続と三成はかねてから密謀し、東西から家康を挟み撃ちにする作戦だったといわれる。しかし、上杉軍は引き返す家康を追撃せず、出羽の最上義光に矛先を向ける。そして、この最上攻めの指揮を執ったのが兼続である。上杉軍は当初、最上軍を圧倒し、短期間で最上家の本拠・山形城の西南約5キロに位置する長谷堂城を取り囲んだ。上杉軍は、勢いに乗って攻め立てたが、最上領で随一の堅城である長谷堂城の守りは堅く攻めあぐねた。逆に最上軍に奇襲を受け、大打撃を受ける場面もみられ、結局、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、兼続は退却を決断する。上杉軍が退却を始めると、最上軍の追撃はすさまじかったが、この難しい局面で兼続は見事な退却劇をみせ、被害を最小限に食い止めた。

 徳川家康が天下分け目の大戦で勝利した以上、家康の時代になることが明白であり、兼続はかねてより交友のあった本田正信などに依頼し、生き残りの道を模索する。その結果、家康より上杉家は120万石から米沢30万石への大減封を言い渡されるが、当然受諾せざる得ない状況であった。上杉家では急に石高が減ったため、以後、米沢藩は常に藩財政が逼迫した状況になってしまう。そんな中、兼続は、景勝のもとで米沢の城下町を整備し、産業育成や鉱山開発などを行い、米沢藩の基礎を築いた。兼続は元和五年(1619)に60歳で没するが、逼迫する藩財政を少しでも助けるためと直江家を自ら絶家し、上杉家に3万石を返上することで景勝への最期の奉公をしたといわれる。


直江兼続の家紋
「三つ盛亀甲に三枚葉」
父:樋口兼豊    母:泉重歳の娘

正室:お船の方(直江景綱の娘)

兄弟:大国実頼など

子:直江景明、於松(本多政重室)
養子:本多政重(本多正信の次男)  


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直江兼続 関連年表
1560年(永禄三年) 樋口兼豊の長男として生まれる。
1578年(天正六年) 3月、上杉謙信死去。御館の乱勃発。
1581年(天正九年) 直江景綱の娘のお船の方と結婚し、直江家を継ぎ、越後・与板城主となる。
1586年(天正十四年) 景勝と共に上洛し、兼続は従五位下に叙せられる。
1587年(天正十五年) 北越後の新発田重家の乱を鎮圧。
1589年(天正十七年) 本間氏を征伐し、佐渡平定
1590年(天正十八年) 小田原征伐に出兵。
1592年(文禄元年) 朝鮮出兵に景勝と共に参陣。
1598年(慶長三年) 1月、秀吉の命により上杉家が越後から会津120万石へ移封され、兼続も米沢30万石(寄騎を含めて)領す。
8月、秀吉死去。
1600年(慶長五年) 9月、関ヶ原の戦い
上杉軍最上領に侵入し、長谷堂城で激戦を繰り広げる。
1601年(慶長六年) 上杉家、会津120万石から米沢30万石に減封される。
1604年(慶長九年) 本多政重を長女の婿養子とする。
1614年(慶長十九年) 大坂冬の陣に景勝と共に参戦。
1615年(慶長二十年) 大阪夏の陣で戦功を挙げる。
長男・景明死去。
1619年(元和五年) 江戸にて死去。享年60。

一口メモ
直江兼続は実績のわりに、後世の評価が高い人物の一人である。それは、やはり兼続は人間としてのスケールの大きさとカリスマ性をもっていて、人を魅了するような人物だったからだと思う。




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