石田三成(いしだ みつなり)
豊臣家家臣

石田三成画像(龍潭寺蔵)
別名、改名、通称 佐吉(幼名)、三也
官位、役職 従五位下治部少輔、従四位下侍従、豊臣家五奉行
生没年 永禄三年(1560)~慶長五年(1600)
墓所 京都府京都市北区紫野 大徳寺三玄院
秋田県秋田市八橋本町 帰命寺
和歌山県伊都郡高野町 高野山
ゆかりのお城 佐和山城、長浜城、肥前名護屋城、忍城、舘林城、
大垣城、伏見城、水口城

石田三成の生涯
 行・財政の才能に長け、豊臣政権の数々の政策に携わって、豊臣家の天下を陰で支えた人物である。実際、豊臣秀吉の天下統一事業が比較的順調に進んだのは、三成ら優秀な官僚の働きによるところが大きい。そして、秀吉死後は、実質西軍の総指揮官となり、関ヶ原で徳川家康に一大決戦を挑むが、残念ながら敗れてしまう。江戸時代以降、家康に楯突いたとして評判の低い人物だったが、最近は豊臣家の家臣の中で最も忠義が篤く、才知豊かな人物として評価は高まっている。



 石田三成は、北近江の土豪・石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。幼少時より利発で頭脳明晰だった三成は、まだ織田信長の一部将で近江・長浜を領していた頃の秀吉に見出され、小姓として仕えるようになる。この時の逸話である観音寺での「三献の茶」は有名である。その後、信長に中国地方攻めを命じられた秀吉に従軍し、さらに賤ヶ岳の戦いでは諜報活動を行い戦功を挙げるなど活躍したといわれる。そして、天正十三年(1585)七月、秀吉が関白に叙任されると三成も従五位下治部少輔に叙任される。翌年には堺奉行を務め、天正十五年(1587)の九州征伐では、豊臣軍の兵糧・武具などの補給を担当するなどして秀吉の信任を得ていく。九州征伐後は、衰退していた貿易都市・博多の奉行となり復興に尽力した。小田原攻めでは、北条氏の舘林城を攻略し、忍城攻めでは秀吉の命で水攻めを行ったがうまくいかなかった。続いて行われた奥州仕置にも三成は従軍し、その後の検地でも奉行を務めた。文禄元年(1592)に始まった文禄の役では、船奉行として兵員物資の輸送を担当。さらに、朝鮮在人奉行として大谷吉継増田長盛前野長泰加藤光康らと朝鮮に渡り、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いに参戦するが、朝鮮での厳しい戦いぶりを目の辺りにし、小西行長らとともに明国と講和を模索するようになる。しかし、講和交渉が最前線で戦っていた加藤清正らを抜きで進められたため、後に武功派との対立の要因となってしまう。三成は朝鮮から帰国後も、太閤検地で中心的な役割を果たし、ますます秀吉からの信任を得ていき、豊臣政権内で奉行随一の実力者として大いに権勢をふるっていった。そして、文禄四年(1595)には、近江・佐和山19万4千石の所領を与えられる。慶長二年(1597)に始まった慶長の役では、翌年秀吉が死去したため、浅野長政らとともに博多で日本軍の撤収を指揮し、被害を最小限に留めた。

 秀吉死後、秀頼が豊臣家の跡を継ぐがまだ幼少のため、五大老、五奉行によって政務がとられることとなる。しかし、その中で関東に255万石を有する実力者・徳川家康の専横が次第に顕著となっていく。それを許すことのできない三成は、もう1人の実力者・前田利家らとともに詰問するが、老獪な家康にうまくかわされてしまう。慶長四年(1599)に利家が亡くなると三成は、以前より三成に不満を抱いていた加藤清正、福島正則ら武断派七将に襲撃され、何とか逃げのびたが、家康から奉行職を解かれ失脚し居城である佐和山城に退居を命じられる。利家が死に三成が失脚したため、家康はますます豊臣政権を私物化し諸大名の加増を勝手に行ったり、前田利長にあらぬの疑いをかけ討伐軍を編成するなど、天下奪取に向け野望をあらわにしていく。家康は、前田家を屈服させると次は上杉景勝に標的を代え、豊臣家の名の下で討伐軍を編成し上杉領・会津に向け遠征を開始する。家康が関東に向かった隙を突き、三成は挙兵を決意し毛利輝元を総大将に据え西国大名を中心に軍勢を集めた。この時三成は、上杉家の直江兼続とともに東西から家康を挟撃する作戦であったともいわれるが、東軍の先鋒隊が予想以上に早く美濃に進軍してきたため、関ヶ原での決戦を決意。天下分け目の関が原の戦いで家康率いる東軍と天下の覇権をかけて激しい戦闘を繰り広げ、家臣の島左近などの奮闘により善戦するが、小早川秀秋などの裏切りによりあえなく敗退。三成は伊吹山中に逃れたが、近江・古橋村で捕まり、小西行長安国寺恵瓊らとともに京・六条河原で首をはねられた。享年41。豊臣家のため自分の義を貫いた三成は、敗軍の将ながら最期まで悪びれた様子もなく堂々とした態度であったといわれる。


        辞世の句:筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我身なりけり


石田三成の家紋
「大一大万大吉」

:石田正継

:石田重家、石田重成、辰姫(津軽信牧室)

兄弟:石田正澄


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石田三成 関連年表
1560年(永禄三年) 近江国坂田郡石田村に生まれる。
1574年(天正二年) この頃、長浜城主時代の羽柴秀吉に見出される。
1577年(天正五年) 織田信長の命を受けた秀吉の中国攻めが開始される。
1582年(天正十年) 本能寺の変。秀吉、山崎の戦いで明智光秀を破る。
1583年(天正十一年) 賤ヶ岳の戦いで、情報収集に従事する。
1585年(天正十三年) 7月、従五位下治部少輔に叙任。
越後・落水城で秀吉と上杉景勝の会盟が行われる。(直江兼続との出会い)
1586年(天正十四年) 上杉景勝、上洛して秀吉に謁見する。
堺奉行に任じられる。
1587年(天正十五年) 秀吉の九州征伐に従軍。
博多奉行に任じられる。
1590年(天正十八年) 秀吉の小田原攻めに従軍。
5月、館林城を攻略。
7月、忍城を水攻めにする。
奥州仕置。奥州の検地を行う。刀狩を実施する。
1591年(天正十九年) 1月、大崎葛西一揆を鎮定。
9月、九戸政実の乱鎮定のため軍監として奥州に再び向かう。
1592年(文禄元年) 2月、朝鮮出兵(文禄の役)の船奉行を命じられ、肥前名護屋に赴く。
6月、総奉行として朝鮮へ渡海する。
1593年(文禄二年) 碧蹄館の戦いに参戦。
明軍の講和使を伴って、肥前名護屋に帰陣する。
越後の検地を行う。
1594年(文禄三年) 9月、島津領(薩摩・大隈・日向)の検地を行う。
10月、佐竹領(常陸、下野、磐城)の検地を行う。
1595年(文禄四年) 豊臣秀次を尋問。のち秀吉の命により秀次切腹。
近江・佐和山城主となり、19万4千石を領す。
1596年(慶長元年) 京都奉行に任じられる。
明の講和使節を接待する。秀吉、再び朝鮮出兵(慶長の役)を命じる。
1597年(慶長二年) 小早川秀秋、秀吉の逆鱗に触れ一時、領地没収となる。
1598年(慶長三年) 8月、秀吉没す。
9月、浅野長政らと朝鮮に出兵した日本軍の撤収に当たる。
1599年(慶長四年) 秀吉の遺命に背いた徳川家康を四大老、五奉行で詰問する。
前田利家没す。武断派七将に襲撃され、佐和山に隠退を余儀なくされる。
1600年(慶長五年) 5月、家康、上杉征伐のため会津へ向けて出陣する。
7月、西軍挙兵し、伏見城の攻撃を開始する。
8月、西軍の織田秀信守る岐阜城が落城する。
9月15日、関ヶ原の戦いで家康率いる東軍に敗れる。
9月18日、三成の居城・佐和山城が落城する。
9月21日、近江・古橋村で東軍・田中吉政の配下に捕縛される。
10月1日、京都・六条河原で処刑される。享年41。

笹尾山の三成陣跡
三成は関ヶ原一帯を一望できる笹尾山に陣取り西軍を指揮した。

笹尾山遠望
東軍諸将は、この笹尾山めがけて一斉に攻撃するが、
石田隊は奮戦し一進一退の攻防が繰り広げられた。

関ヶ原古戦場決戦地
石田隊に対し、東軍の黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らの軍勢が
殺到し、笹尾山近くのこの辺りが最も激戦になったといわれる。

彦根城から見た佐和山城跡
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
と歌われるほどの名城だったといわれる。

一口メモ
 三成は、加藤清正、福島正則ら武断派と対立するなど嫌われ者のイメージが強いが、直江兼続、佐竹義宣など多く武将との親交も知られている。そして、三成家臣団は、三成の急速な出世のため、豊臣秀次や蒲生家の旧家臣団を取り込むなど急ごしらえであった。しかし、わずかな期間で編成した家臣団にもかかわらず関ヶ原の戦いでの石田隊の戦いぶりは、君臣の絆の強さと三成の人心掌握術の見事さを感じさせられる。


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