三木城(みきじょう)
別名:釜山城、別所城
国史跡
場所 播磨国
兵庫県三木市上の丸町
築城者 別所則治
築城年 明応元年(1492年)頃
主な城主 別所長治、別所則治、中川秀政、伊木忠次(池田家)
主な遺構 天守台跡、曲輪、井戸、空堀、模擬土塀

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歴史背景
 三木城(釜山城)は、明応元年(1492)別所則治が上の丸台地上に築いたのが始まりとされる。以後、東播磨に勢力をもった別所氏の居城となる。天文七〜八年(1538〜39)に尼子詮久(後の晴久)、天文二十三年(1544)には、三好長逸、三田の有馬氏に攻め込まれるが、落城は免れる。
 その後、織田信長が畿内で勢力拡大すると別所氏はいち早く織田氏に従っていた。しかし天正六年(1578)二月、別所長治は織田氏に反旗を翻し、毛利氏陣営に鞍替えする。長治は三木城に立て籠もり毛利氏の援軍を待つ作戦を採るが、織田軍中国攻め司令官の羽柴秀吉は三木城を完全に包囲し、糧道を絶った。毛利軍も何度か三木城へ食糧の搬入を試みるがその度に撃退され、次第に城内の食糧は枯渇し城兵は飢餓状態となる。戦国史上有名な「三木の干殺し」である。籠城戦は2年近くに及んだが、天正八年(1580)一月、別所長治は城兵の助命を条件に開城し、一族とともに自決した。
 その後は、羽柴秀吉が三木城を支配し家臣の杉原氏、中川秀政(中川清秀の嫡男)らが城主となる。関ヶ原後、播磨52万石の大名となった池田輝政の筆頭家老・伊木忠次が三木城主となり、元和二年(1616)の一国一城令により三木城は廃城となる。


三木城天守台跡

天守跡石碑

天守台跡地

天主台跡地の石
当時使われていた石でしょうか。

天守台跡に建つ別所長治の時世の句碑
「今はただ うらみもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば」

「別所長治」石像

「別所長治」石像

城について
 三木城は比高約20mの上の丸台地の上に築かれた丘城で、北側には天然の堀として美嚢川が流れている。北西側は現在でもコンクリートで固められた急峻な崖となっていて、要害堅固の面影を残している。また、南側は鷹尾山城、宮ノ上要害が谷で隔てられて配置されていて、こちらも堅固な守りとなっていた。現在の城跡は宅地化等でほとんどの遺構は失われているが、本丸跡が上の丸公園として整備されていて、天守台跡、井戸跡等が残る。

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本丸北西部の斜面
かなりの急斜面である。

「ようこそ三木合戦の地」の目立つ看板

本丸跡へ上がる階段
目立つ看板の横から三木城本丸跡へにこの階段で登城できる

天然の堀の役割を果たした美嚢川が見える

すぐ近くを電車が通ります
(神戸電鉄)

三木城の北側を流れる美嚢川

下から見た本丸跡
かなりの急斜面で、人は上がることができない。

別所長治騎馬像の鏝絵
(セメント左官アート)

本丸井戸(かんかん井戸)
本丸跡に残る唯一の井戸。口径3.6m、深さ約25m。

上の丸(本丸)跡

上の丸(本丸)跡

本丸の模擬土塀

土塀

本丸にある「三木合戦図」

現地三木合戦図から抜粋「三木城本丸 天守 矢倉」

現地三木合戦図から抜粋「竹中半兵衛 平井にて死す」

現地三木合戦図から抜粋「別所長治、弟・友之自害」

三木城址内略図(現地案内板より)

三木城想像図(現地案内板より)


三木城 関連年表
1492年(明応元年)頃 別所則治が上の丸台地に三木城(釜山城)を築く。
1538年(天文七年) 尼子詮久(後の晴久)が三木城を攻撃。
1539年(天文八年)
1544年(天文二十三年) 三好長逸、三田の有馬氏が三木城を攻撃。
1578年(天正六年) 織田家の羽柴秀吉が三木城を包囲する。
1580年(天正八年) 羽柴秀吉による「三木の干殺し」といわれる兵糧攻めにより、三木城落城。
城主の別所長治自害。
1616年(元和二年) 明石藩・小笠原忠真の支城となる。
1617年(元和三年) 幕府の一国一城令により廃城となる。



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駐車場:三木市立みき歴史資料館駐車場(無料)
     三木市観光協会駐車場(無料)
     三木市役所駐車場(無料)


訪問年月:2018年4月




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