大和郡山城(やまとこおりやまじょう)
別名:犬伏城
続日本百名城、奈良県指定史跡
場所 大和国
奈良県大和郡山市城内町
築城者 筒井順慶
築城年 天正八年(1580年)
主な城主 筒井順慶・定次、豊臣秀長・秀保、増田長盛
水野勝成、本多政勝など
主な遺構 天守台、石垣、堀、曲輪
復元:追手門、向隅櫓、多聞櫓

歴史背景
 明応年間(1492〜1501)頃に郡山衆と呼ばれる土豪・小田切氏によって構えられた館が郡山城の起源といわれている。

 天正五年(1577)、織田信長は裏切った信貴山城の松永久秀を滅ぼし、城攻めの先鋒を務め功績のあった筒井順慶に大和一国を与える。そして、天正八年(1580)、順慶は郡山城の築城を開始し居城と定める。順慶が死去した後、養子の定次が跡を継ぐが豊臣秀吉によって天正十三年(1585)、伊賀上野に転封される。

 代わりに秀吉の弟である秀長が大和・紀伊・和泉三国100万石の領主として、郡山城に入城する。そして、100万石の城にふさわしい大規模な城の建築を開始し、城域、城下町共に大幅に拡張された。また、城下町はそれにともなって大いに発展することとなる。天正十九年(1591)に秀長が死去すると秀長の甥である秀保が跡を継ぐが、文禄四年(1595)その秀保もわずか17歳で死去し、大和豊臣家は断絶する。

 その後は、五奉行の1人である増田長盛が22万石の領主として入城する。長盛によって、未完成であった外郭部も完成し、郡山城は惣構えが構築された巨大な城域をもつ城となる。しかし、長盛は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、徳川家康に所領を没収され高野山に追放される。

 徳川家の領地となり、郡山城は破壊され、建物のほとんどは伏見城に移築される。そして、郡山の地は代官・大久保長安などが管理する事となる。そして、一時荒廃していた郡山城に元和元年(1615)、大坂夏の陣で功績のあった水野勝成が6万石の領主として入城する。幕府の協力を得て城の修築を行うが、勝成は元和五年(1619)、備後・福山に転封となり、代わって摂津・大坂より松平忠明が入封。以後、本多-松平-本多家を経て、柳沢家15万石が幕末まで続いた。


向隅櫓(復元)

向隅櫓追手門

追手門多聞櫓(復元)

追手東隅櫓(復元)

城について
 郡山城は、現在、向隅櫓、追手門、追手東隅櫓、多聞櫓が復元されている。秀長時代には100万石の領主の城として、それにふさわしい天守や櫓群が建ち、城域も25万平方メートルに及ぶ大規模なものだった。現在は内郭部に石垣と堀が残るだけだが、高石垣や堀の深さでその規模を推し量ることが出来る。これほどの大城郭の建設に石垣に使う石材の供給が間に合わず、付近の寺院から石地蔵や庭石、礎石、五輪塔などが集められ、それが多く使われることとなる。その1つであるさかさ地蔵が現在でも残っている。また、城建設のために、天正十五年(1587)に紀州根来寺の大門を郡山に運んで門とし、春日神社の水谷川から大石を切り出して郡山に運んだ。


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二の丸と三の丸を隔てる水堀

秀長時代に築造された本丸の石垣

内側から見た追手門多聞櫓

本丸の石垣

水堀

天守台

天守台遠景
少し木々に覆われて分かりにくいが高石垣の奥に
天守台が存在する

さかさ地蔵
築城時に多くの石地蔵や庭石が集められた。

本丸の柳沢神社入口

本丸にある柳沢神社
5代将軍・綱吉に仕えて柳沢家を
15万石の大名にまでした柳沢吉保を祀る。

大和郡山城 関連年表
1580年(天正八年) 筒井順慶が郡山城の築城を開始する。
1584年(天正十二年) 順慶死去。養子の定次が跡を継ぐ。
1585年(天正十三年) 定次、伊賀上野へ転封。豊臣秀長が100万石の領主として入城。
1591年(天正十九年) 秀長死去。養子の秀保が跡を継ぐ。
1595年(文禄四年) 秀保、吉野で不慮の死を遂げ大和豊臣家断絶。増田長盛が22万石の領主として入城。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦いで西軍に与したため、増田家の領地は没収される。
1615年(元和元年) 大坂の夏の陣で功績のあった水野勝成が6万石の領主として入城する。
1619年(元和五年) 勝成、転封となり松平忠明が入城する。
本多家、松平家、本多家、柳沢家と城主を代え、明治を迎える。


大和郡山城 周辺地図 スポンサーリンク


<入城料>
無料
<アクセス>
近鉄郡山駅
から徒歩で約5〜10分。

駐車場

無料駐車場有り
(数台)
<リンク>
大和郡山城ばーずあい





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