下津井城(しもついじょう)
別名:長浜城、烏留守城
岡山県指定史跡
場所 備前国
岡山県倉敷市下津井
築城者 宇喜多秀家
築城年 文禄年間(1592〜1596)
主な城主 宇喜多氏、小早川氏(平岡頼勝)
池田氏(池田長政、池田由之、荒尾成房、池田由成)
主な遺構 石垣、天守台、曲輪、土塁、移築門(正福寺山門)

歴史背景
 下津井城は文禄年間(1592〜1596)に宇喜多秀家が砦に近いものを築いたのが始まりとされている。秀家は関ケ原の戦いで西軍に属し敗れたため改易となり、代わって小早川秀秋が備前国に入封し下津井城には城代として重臣の平岡頼勝が入った。秀秋は瀬戸内海航路の要衝にある下津井城の強化を目指して改修を行ったが、慶長七年(1602)に21歳の若さで急死している。
 小早川家は無嗣断絶で改易となり、代わって池田忠継(池田輝政の子)に備前国が与えられ、下津井城には城代として忠継の叔父・池田長政(輝政の弟)が入る。池田氏もこの城を重要視し現在に残る石垣を含めた近代城郭への改修を行った。長政が没した後の慶長十二年(1607)頃に改修が完了し、慶長十四年(1609)に利神城主だった池田由之が3万2000石で下津井城に入る。その後も岡山藩池田家の支配で荒尾成房、池田由成(由之)が城主となるが、寛永十六年(1639)、一国一城令により廃城となる。


本丸跡に建つ「下津井城跡」石碑

「岡山県指定史跡 下津井城跡」

三の丸跡の石垣

駐車場

城について
 下津井城は瀬戸内海に面した88mの丘陵に東西に細長く築かれた連郭式平山城である。瀬戸大橋架橋記念公園の一部として整備されているため、とても散策しやすくなっている。遺構としては、石垣、土塁が残っているだけだが、関ヶ原後に整備された近世城郭だけに石垣が多用されている。晴れた日は、瀬戸内海、瀬戸大橋の眺めがとても素晴らしい。


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西の丸の土塁と石垣

西の丸から二の丸をつなぐ土橋

西の丸跡

西の丸跡

西の丸跡の石垣

西の丸跡の石垣

二の丸跡の石垣

二の丸跡の石垣

石段の上が本丸跡

本丸跡

本丸跡

天守跡

三の丸跡

三の丸跡

三の丸跡の石垣

中出丸跡

中の丸跡

中の丸跡から見える瀬戸大橋

下津井城跡から見た鷲羽山ハイランド

二の丸跡

三の丸跡に登る石段

三の丸跡の石垣

三の丸跡の石垣

下津井沖を通る船
今も昔も下津井沖は重要航路で現在も多くの船が行き交っている。

下津井城跡遺構図(現地案内板より)


下津井城 関連年表
1592〜1596年
(文禄年間)
宇喜多秀家が下津井城を築城する。
1600年(慶長五年) 小早川秀秋の重臣・平岡頼勝が下津井城に入る。
1602年(慶長七年) 小早川秀秋、病没。
1603年(慶長八年) 池田忠継の重臣・池田長政が下津井城を任せられ、大改修を開始する。
1607年(慶長十二年) 7月、池田長政、死去。
下津井城の改修が完了。
1609年(慶長十四年) 池田由之が利神城から下津井城の城代となる。
1613年(慶長十八年) 由之が明石城に移り、池田忠継の重臣・荒尾成利が下津井城の城代となる。
1632年(寛永九年) 池田由成(由之の子)が米子城から下津井城の城代となる。
1639年(寛永十六年) 一国一城令により廃城となり、由成は天城の陣屋に移る。


下津井城跡 周辺図 スポンサーリンク


<入城料>
なし


訪問年月:2008年4月
<アクセス>
JR瀬戸大橋線 児島駅
 から車で約20分

 瀬戸中央自動車道児島ICから約10分。

駐車場

瀬戸大橋架橋記念公園駐車場 100台(無料)





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