沼城(ぬまじょう)
別名:亀山城

岡山市指定史跡
場所 備前国
岡山県岡山市東区沼
築城者 中山備中守信正
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 中山備中守信正、宇喜多直家
主な遺構 曲輪、土塁、空堀


歴史背景
 沼城(亀山城)は備前国上道郡を治めていた中山備中守信正によって、天文年間(1532〜1555)に築かれた。信正は当初、金川城主の松田氏に従っていたが、松田氏の勢力が衰え始めると天神山城主の浦上宗景に従うようになる。天文二十年(1551)信正は同じ宗景傘下の宇喜多直家に娘を嫁がせて姻戚関係を結ぶ。

 永禄二年(1559)、宗景は信正が再び松田氏と内通していると疑い宇喜多直家に信正の殺害を命じる。直家は沼城で招かれた酒宴の席で信正を討ち取る事に成功する。この功績により直家は宗景より沼城を与えられ、居城を新庄山城から沼城に移す。直家は約十四年この城を居城とし、その間に勢力を拡大した直家は備前国屈指の戦国大名へと出世していく。

 天正元年(1573)、直家はかねてから目を付けていた石山城(岡山城)を金光宗高から没収したのち居城を移す。沼城はその後、直家の弟・春家が城主となったといわれるが、関ヶ原の戦いで宇喜多家が滅ぶと廃城となっている。
 ちなみに羽柴秀吉は中国大返しの折りに備中高松城から沼城へ移動し、この城に入ったのち姫路城へ移動している。


沼城遠望(南側から)

本丸、二ノ丸遠望(南側から)

沼城遠望(東側から)
手前の川は砂川
 
沼城本丸遠望

登城口の石段

登城口の石段

本丸
 

城について
 沼城は城名の通り周辺の低湿地帯を生かした沼城である。現在も城の周辺は、田んぼや多くの水路が流れていて当時低湿地帯だったことは容易に想像でき、地名も沼、浮田などが残っている。城のすぐ南側に旧山陽道が通る交通の要衝に築かれた城で、東側には天然の堀である砂川が流れる。標高40mほどの小さな丘に築かれた城で規模も大きくないため、城の散策は比較的容易な城である。



本丸跡標柱
 

本丸

本丸跡に建つ「直家飛躍の地」「亀山城跡」「秀家生誕地」の石碑

本丸から二ノ丸に繋がる通路

二の丸跡

二の丸跡

城周辺は現在も水路が多い

城の東側を流れる砂川
平成30年7月の西日本豪雨で東側の堤防が決壊。
   
 
西の丸北側
 
 
沼城古地図(現地案内板より)
 
沼城(亀山城)縄張り図(現地案内板より)

 (現地案内板より)
 
沼城から岡山城に移築されたと伝わる大納戸櫓
三重四階建てで岡山城最大の櫓だった
(岡山城案内板より・明治初期古写真)


沼城 関連年表
 天文年間
(1532〜1555年)
中山備中守信正によって築城される。
1559年(永禄二年) 宇喜多直家は舅の信正を謀殺し、沼城主となる。
1572年(元亀三年) 宇喜多秀家が沼城で生まれる。
1573年(天正元年) 直家、居城を石山(岡山)城へ移す。
1581年(天正九年) 直家、死去。秀家が宇喜多家の家督を継ぐ。 
1582年(天正十年) 本能寺の変後の中国大返しで、羽柴秀吉軍が備中高松城より沼城へ入城し、休息のち姫路城へ移動。
1600年(慶長五年) 秀家の与する西軍が関ヶ原の戦いで敗れ、宇喜多家は滅亡する。
1601年(慶長六年) 宇喜多氏に代わって岡山城主となった小早川秀秋により廃城となる。
廃城とともに沼城の天主が岡山城の大納戸櫓として移築される。
 1606年(慶長十一年) 宇喜多秀家、八丈島へ流罪となる。 


沼城跡 周辺図 スポンサーリンク
駐車場:なし(周辺に空地あり)
最寄り駅:JR山陽本線「上道駅」
訪問年月:2004年4月、2021年11月



岡山県の城

岡山城


備中松山城


津山城


備中高松城


下津井城


常山城


砥石城

八浜城

三石城

乙子城

新庄山城

沼城





戦国探求TOPページお城めぐり




Copyright (C) 2009-2023  戦国探求 All Rights Reserved