吉田郡山城
(よしだこおりやまじょう)

別名:-
国史跡、日本100名城
場所 安芸国
広島県安芸高田市吉田町吉田
築城者 毛利時親
築城年 建武三年(1336)
主な城主 毛利元就、毛利輝元など(代々毛利氏)
主な遺構 石垣、井戸、土塁、曲輪、堀切、内堀(薬研堀)など

歴史背景
 建武三年(1336)、安芸国吉田荘の地頭となった毛利時親が郡山に城を築いたのが吉田郡山城の始まりといわれる。以来、毛利氏は代々、郡山城を居城とした。そして、毛利氏十二代目にあたるのが中国地方を制した毛利元就である。元就が家督を継いで以降、毛利氏は大内氏の傘下となりで尼子氏と敵対するようになる。天文九年〜十年(1540〜41)にかけて尼子詮久(のちの晴久)が30,000ともいわれる大軍で吉田郡山城を取り囲み、毛利軍は領民も含めて約8,000で籠城することとなる。籠城戦は4ヶ月以上に及んだが、元就は陶隆房率いる大内氏の援軍20000とともに尼子軍を撃退し、吉田郡山城での戦いに勝利する。その後、元就は郡山城を拠点に勢力を拡大していき、大内氏や尼子氏を滅ぼし中国地方の覇者となる。

 元就没後、毛利家当主となった輝元は石垣などを用いて郡山城を近世城郭に整備していく。しかし、山間の吉田では城下町の発展や交通の便などから商業の発展も見込めないため、輝元は広島城を築城し天正十九年(1591)に本拠を移した。さらに、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、毛利氏が周防・長門に減封されたため、郡山城は毛利氏の手を離れることとなる。その後、幕府の一国一城令によって廃城となり、島原の乱後に石垣や堀などが破却されたといわれる。



日本百名城の碑

国史跡・郡山城址碑

毛利元就像

毛利元就火葬場跡
元亀二年(1571)に郡山城の御里屋敷で死去した元就は、
ここで火葬された。

城について
 吉田郡山城は広島県のやや北部に位置し、江の川と多治比川に挟まれた吉田盆地の北にある郡山に築かれた山城である。その規模は、中国地方の覇者・毛利氏の居城にふさわしく郡山全山に及び大小270以上の郭がみられるほどで、戦国時代有数の巨大山城である。現在でも、本丸を中心に数多くの曲輪群を見ることができ、その規模に驚かされる。まともに一通り見ると半日はかかる。しかし、山城としては整備がとても行き届いているので、とても散策しやすい城といえる。毛利元就像や毛利元就・隆元の墓所など見所も満載で戦国ファンならぜひ訪れたい城である。



御里屋敷跡
元就が晩年をすごしたといわれている。

御里屋敷跡に建てられている三矢の訓跡碑

清神社(県重要文化財)
地域の人はもちろん毛利氏も郡山の鎮守社として
深く崇敬していた。

郡山公園
興禅寺跡
(毛利氏の保護を受けていた寺で現在も広島に存在する。)

展望台から見た景色

登城道
比較的よく整備されているので歩きやすい。

旧本城に続く通路
道が狭く両脇は急峻な崖になっていて、所々に堀切も見られる。

旧本城跡
郡山南東に位置し、元就が郡山全体を城郭とするまでの
11代約190年間、毛利氏の本城だった。

尾崎丸跡
旧本城との間を三条の堀切で隔てた曲輪群。

満願寺跡
郡山城の西南に位置し、毛利氏入城以前からあった寺として
伝えられる。

土塁
かなり大規模である。

勢溜の壇跡
御蔵屋敷の下段に位置し、本丸中枢部への侵入を防ぐ
大小10段からなる大型曲輪

御蔵屋敷跡
東西約20m、南北約30mの広い敷地に建っていた
といわれる兵糧蔵跡。

三の丸南東の石垣跡
江戸時代に入りほとんど崩された。

三の丸と二の丸を隔てる土塁

三の丸の石垣跡

二の丸跡
本丸の南につながり、本丸より2m低い位置にある。

本丸跡
元就は勢力拡大する過程で、旧本丸からこちらに本丸を移して
城を郡山全体に拡張していった。

釣井の壇近くの石垣跡

釣井の壇にある井戸

嘯岳禅師の墓
元就が尊敬して竹原妙法寺から度々吉田に招いた高僧の墓。

堀切でしょうか

元就の墓近くの登山道

百万一心の碑
郡山城築城時に元就が、当時風習にあった人柱のかわりに
一日一力一心の大石を鎮めたといわれる。

毛利元就の墓の入口

毛利元就墓所

毛利一族墓所
右側に初代時親から8代豊元までの合葬が1つあり、
その他に元就の兄・興元、その子である幸松丸、隆元の妻の
3つの墓がある。

毛利隆元墓所
元就の長男で家督を24歳で継ぎ、元就の偉業に元春、隆景とともに
大きく貢献したが、永禄六年(1563)に41歳で急逝した。

内堀(薬研掘)跡
約100mを検出した断面がV字型の堀で、薬研堀の発掘調査例
としては国内最長。元就、輝元の時代に造られたようだ。

駐車場から見た郡山
駐車場周辺は砂防公園として整備されている。

郡山城縄張り図(現地案内板より)

郡山城縄張り図(現地案内板より)

郡山城跡現況航空写真(現地案内板より)

吉田郡山城 関連年表
1336年(建武三年) 毛利時親が郡山南東の尾根に築城する。
1523年(大永三年) 幸松丸が死去したため、毛利元就が郡山城に入城し毛利家の家督を継ぐ。
1541年(天文十年) 郡山城が尼子詮久率いる3万の大軍に攻められるが、大内氏の援軍にも援けられ尼子軍を撃退する。
1563年(永禄六年) 隆元が急逝したため、輝元が毛利家の家督を継ぐ。
1571年(元亀二年) 元就、郡山城の御里屋敷で死去。
1591年(天正十九年) 輝元、広島城に本拠を移す。
関ヶ原合戦後 廃城となる。
島原の乱後 石垣や堀などが破却される。


吉田郡山城跡 周辺地図 スポンサーリンク
駐車場:砂防公園の駐車場(無料)
     安芸高田市歴史民俗資料館駐車場(無料)

最寄り駅:JR芸備線「向原駅」
訪問年月:2010年4月




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