|
三原城 (みはらじょう) 別名:浮城、玉壺城 国史跡、続日本100名城(172番) |
場所 | 備後国 広島県三原市城町 |
|
築城者 | 小早川隆景 | |
築城年 | 永禄十年(1567) | |
主な城主 | 小早川隆景、福島氏、浅野氏 | |
主な遺構 | 天守台、石垣、水堀 |
歴史背景 |
小早川隆景は新高山城を本拠としていたが山城であったため、瀬戸内海の水軍を束ねる拠点として永禄十年(1567)頃に海に面した三原城を築いた。小早川水軍の本拠地としての役割を持った海城で、毛利家の発展とともに改修が続いたとされる。天正十年(1582)に隆景は居城をそれまでの新高山城から三原城に移す。その後、隆景は豊臣秀吉より毛利氏から独立した大名として筑前筑後に37万石を与えられ筑前・名島に移るが、文禄三年(1594)羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子に迎えて家督を譲り、隠居した隆景は三原城に戻り、城を近世城郭に整備し城下町を発展させた。 関ヶ原合戦後、三原城は福島正則の支城となるが、元和五年(1619)の広島城無断修築により正則は信濃・川中島に減移封となる。代わりに紀伊・和歌山より浅野長晟が42万石の領主として広島城に入り、浅野氏広島藩の支城として三原城には幕末まで城代が置かれた。 |
三原城天主(天守)台 天主台には天主は築かれなかったが、かなり大きい。 |
|
三原城天主(天守)台 新幹線の駅のすぐ横なのが、よく分かる。 |
|
天主台の上 |
天主台の上 |
「史蹟 三原城址」石碑 |
天主台から見た天主台周辺の水堀 |
城について |
三原城は沼田川河口に築かれた海城で、水軍の拠点の役割も果たした城である。現在は埋め立て等によって海に面していないが、随所にその名残がある。しかし、天主台横を貫通しているJR山陽本線、新幹線に象徴されるように、都市化によりほとんどの遺構は失われた。一番の見どころは大規模な天主台だが、実際には天主は築かれず、隅櫓が築かれていたようだ。その他、駅周辺に舟入櫓跡の石垣等を見ることができる。 |
鉄道施設と一体化した石垣 |
|||||
本丸石垣の上に新幹線の駅 |
|||||
小早川隆景像 毛利元就の三男で、兄・吉川元春とともに、毛利両川として 毛利本家の発展に大きく寄与した。 |
小早川隆景像 |
||||
「本丸中門跡」石碑 |
本丸中門跡の石垣 |
||||
「三原城臨海一番櫓址」石碑 |
舟入櫓跡前に建つ「聖トマス小崎像」 秀吉のキリシタン弾圧により京都で捕まり、長崎へ送られる途中、 三原城の牢より母に宛てて手紙を書いたとされる。 |
||||
舟入櫓跡の石垣 |
|||||
舟入櫓跡の石垣 |
|||||
舟入櫓跡の石垣 |
|||||
内堀跡の石垣 三原城の原型かどうかわからないが雰囲気がある場所だ。 |
|||||
三原城天主台から見た桜山 三原城の詰めの城を担っていたとされる桜山城があった。 |
|||||
|
|||||
三原城復元図(現地案内板より) |
三原城 関連年表 |
1550年(天文十九年) | 小早川隆景が沼田小早川家を継ぐ。 |
1567年(永禄十年) | 隆景が水軍の拠点として三原城を築く。 |
1577年(天正五年) | 織田信長の中国攻めに対して、三原城が毛利軍の本陣となる。 |
1582年(天正十年) | 隆景、新高山城から三原城に本拠を移す。 |
1587年(天正十五年) | 隆景、九州征伐の功により、筑前国・名島を与えられ本拠を移す。 |
1595年(文禄四年) | 養子の小早川秀俊(秀秋)に家督を譲り、隆景は三原城に戻る。 |
1597年(慶長二年) | 隆景、三原にて死去する。 |
1600年(慶長五年) | 関ヶ原合戦後、福島正則が備後52万石の領主となり正則は広島城に入り、三原城には養子の正之が入った。 |
1619年(元和五年) | 福島正則が広島城の無断修築により信濃・川中島へ減移封となり、代わりに浅野長晟が42万石の領主として広島城に入り、三原城には筆頭家老の浅野忠吉が入った。 以後、浅野氏広島城の支城として明治維新まで存続した。 |
三原城跡 周辺地図 | スポンサーリンク |
駐車場:三原駅周辺に有料駐車場複数あり 最寄り駅:JR「三原駅」 訪問年月:2010年4月 |
三原城 御城印 |
続日本100名城スタンプ 172 三原城 |
御城印販売場所 | スタンプ設置場所 |
・三原観光協会(JR三原駅) | ・三原観光協会(JR三原駅) ・三原市歴史民俗資料館 |
広島県のお城
戦国探求TOPページ>お城めぐり |
Copyright (C) 2009-2024 戦国探求 All Rights Reserved