1528年(享禄元年)? |
光秀が美濃国で生まれる? |
1556年(弘治二年) |
長良川の戦いで斎藤道三が死亡し、光秀流浪の身となる。 |
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越前の朝倉義景に仕える。 |
1565年(永禄八年) |
足利義輝が三好三人衆・松永久秀に殺害され、足利義昭が京を脱出し後に朝倉氏を頼る。光秀、義昭に仕える。 |
1568年(永禄十一年) |
光秀が義昭と織田信長の仲介役を務め、義昭は信長を頼り美濃に向かう。信長、義昭を奉じて上洛し、義昭は室町幕府十五代将軍となる。 |
1569年(永禄十二年) |
光秀、織田家の重臣とともに京畿の政務にあたる。 |
1570年(元亀元年) |
金ヶ崎の退き口で羽柴秀吉らとともに殿を務める。 |
1571年(元亀二年) |
比叡山焼き討ちで大きな功績をあげ、近江国志賀郡を与えられ坂本城を本拠とする。 |
1573年(天正元年) |
足利義昭が信長に追放される。 |
1575年(天正三年) |
6月、信長より丹波経略の命令が下り、丹波攻略を開始する。 |
1576年(天正四年) |
1月、波多野氏が背き、光秀丹波より一旦撤退する。
2月、再び丹波に攻め込む。
4月、石山本願寺攻めに参戦する。 |
1577年(天正五年) |
2月、雑賀攻めに参加。
10月、松永久秀謀反により信貴山城の戦いに参戦する。 |
1578年(天正六年) |
4月、石山本願寺攻めに参戦する。
10月、姻戚関係にあった荒木村重が謀反を起こす。 |
1579年(天正七年) |
5月、波多野氏の有力な支城である丹波・氷上城を落とす。
6月、丹波・八上城を落とし波多野氏を滅ぼす
8月、黒井城を落とし赤井氏を滅ぼす。
丹波国・丹後国を平定。 |
1580年(天正八年) |
丹波一国の支配権を与えられ、亀山城を居城とする。 |
1581年(天正九年) |
6月、全十八条から成る軍規を定める。 |
1582年(天正十年) |
3月、武田攻めのため信長が安土城を出発し光秀も従軍する。
5月17日、光秀、徳川家康の饗応役を免ぜられ、安土から坂本城に帰る。
5月26日、軍勢を引き連れて坂本城を発し丹波亀山城に入る。
5月27日、霊峰愛宕山に登り籤を引き、必勝祈願をする。
5月28日、愛宕威徳院で百韻連歌に参加し、「ときは今天が下たる五月かな」の句を詠む。
6月1日、光秀、軍を率いて丹波亀山城を出発する。
6月2日、京・本能寺で信長を討つ(本能寺の変)。二条御所で信忠を討つ。
6月5日、安土城を接収する。佐和山城、長浜城を攻め取る。
6月8日、安土城を明智秀満に預けて坂本城に帰る。
6月9日、京で朝廷や寺社に金銭を進上する。
6月10日、筒井順慶の出陣を待つため洞ヶ峠に陣を敷く。光秀、夜に羽柴秀吉軍の急速な東上を知る。
6月11日、洞ヶ峠から下鳥羽に本陣を移す。
6月12日、山崎付近で羽柴軍と明智軍の間で双方の鉄砲隊による銃撃戦が起こる。
6月13日、下鳥羽から御坊塚に本陣を移す。夕刻頃、明智軍山崎の戦いに敗れる。光秀、坂本へ敗走途中に農民に襲われ負傷し自害して果てる。 |