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御着城 (ごちゃくじょう) 別名:茶臼山城、天川城 |
場所 | 播磨国飾磨郡 兵庫県姫路市御国野町御着 |
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築城者 | 小寺政隆 | |
築城年 | 永正十六年(1519年) | |
主な城主 | 小寺政隆、小寺則職、小寺政職 | |
主な遺構 | 曲輪、堀、復元塀 |
歴史背景 |
御着城は播磨国の守護職である赤松氏の家臣(一族)であった小寺政隆が永正十六年(1519)に築いた城と伝わるが、嘉吉年間(1441〜44)にはすでに構居が設けられ、明応年間(1492〜1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭があったされる。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城とされ、小寺氏がこの地域周辺に強い勢力を持っていたことがうかがい知れる。 天正三年(1575)、政隆の孫・政職は家臣の小寺孝高(黒田官兵衛)の勧めにより一旦は織田信長に降る。その後、孝高は信長の命で播磨に入った羽柴秀吉に従うようになり、播磨を転戦する。 天正六年(1578)、三木城の別所長治や有岡城の荒木村重が信長に反旗を翻すと、政職もこれに呼応して織田氏から毛利氏陣営へ鞍替えした。しかし織田軍の攻撃により天正七年(1579)には有岡城が落城し、三木城も落城必至の状況となり、政職は城を捨てて毛利領の鞆にいる足利義昭の元へ逃亡し御着城は落城する。その後小寺氏は、政職の子・氏職が黒田官兵衛に仕えて、子孫も福岡藩士として黒田家に仕えた。 |
黒田官兵衛 顕彰碑 若き日の黒田官兵衛が仕えていた城として有名 |
城について |
御着城は姫路城から5キロほど東側に位置していた平城で、城の西側を流れる天川を天然の堀として西と南は二重の堀、北と東は四重の堀があり土塁も設けられていたとされる。山陽道の通る要衝に位置した御着城は、主郭部に本丸、二ノ丸を設け、外郭部に家臣の屋敷や町屋を取り込んだ惣構えの城だった。現在は遺構らしきものがほとんどないが、黒田官兵衛が若い頃小寺政職の近習としてこの城に仕えていたいうことで官兵衛ゆかりの城として有名な城である。また、本丸跡東側にある官兵衛の祖父・重隆と母の廟所も見どころの一つとなっている。 |
「御着城 本丸跡」碑 |
「本丸跡」に建つお城風の姫路市役所東出張所 |
歩道橋から見た「本丸跡」 |
「御着城址」石碑と復元塀 |
天川橋 姫路藩が文政十一年(1828)にこの地より南西200mの旧西国街道の天川に架橋した総竜山石製の太鼓橋。 昭和53年10月現在地に移設保存。(現地案内板より) |
濠跡 橋下の窪んだ所が濠跡 |
二の丸跡 現在はグラウンドとなっている。 |
黒田家廟所 黒田官兵衛の祖父・重隆と生母(明石氏)の墓所。 |
小寺大明神 御着城の本丸跡(国道2号線んで隔てられた南側)にある。 御着城の城主であった小寺一族と城に関係する人々を祀っている。 |
左に天川政隆歌碑「ふる里にわれらの古城をたづねて しづかなる すがたのままに ふるさとの 山川みえて かにかくうれし 政隆」 右に城址碑「天川城址 小寺城主之奥都城」 |
五輪塔と石佛 本丸跡から出土したものを復元されたもので、秀吉軍と戦って散った御霊を弔うために造られた。 |
御着城跡案内図(現地案内板より) |
御着城縄張り推定図(現地案内板より) |
御着城 関連年表 |
嘉吉年間(1441〜1444年) | 御着城付近に構居が設けられていたとされる。 |
明応年間(1492〜1501年) | 赤松氏の播磨支配の拠点として守護所が設けられていた。 |
1519年(永正十六年) | 小寺政隆が御着城を築城する。 |
1575年(天正三年) | 小寺政職、織田信長へ従属をする。 |
1578年(天正六年) | 2月、三木城の別所長治が織田氏から離反。 10月、摂津有岡城の荒木村重が織田氏から離反。 小寺政職、織田氏から離反し、毛利陣営に鞍替えする。 |
1579年(天正七年) | 11月、有岡城落城 小寺政職が御着城から逃亡し落城。 |
周辺地図 | スポンサーリンク |
駐車場:御着城址公園(無料) 6〜7台 最寄り駅:JR山陽本線「御着駅」 訪問年月:2018年4月 |
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