|
利神城 (りかんじょう) 別名:雲突城 国史跡 |
場所 | 播磨国 兵庫県佐用郡佐用町平福 |
|
築城者 | 別所敦範 | |
築城年 | 正平四年・貞和五年(1349) | |
主な城主 | 別所敦範、別所光則、別所靜冶、別所林冶、池田由之 | |
主な遺構 | 石垣、曲輪、堀切 |
歴史背景 |
利神城は正平四年/貞和五年(1349)に播磨国守護・赤松氏の一族である別所敦範が利神山に砦を築いたのが始まりとされている。嘉吉の乱で赤松氏が敗退したことにより利神城も山名氏の支配となったと考えられる。応仁の乱で赤松氏が播磨国で復権を果たすと、別所氏は再び利神城主となる。 天正五年(1577)の羽柴秀吉による福原城、上月城攻めの際、利神城主の別所氏は秀吉に降伏し攻撃は免れる。しかし、一族の三木城主・別所長治が織田氏に反旗を翻した影響なのか、翌天正六年(1578)上月城に入っていた山中幸盛(鹿介)らに攻められ落城したといわれる。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後、姫路城に入城した池田輝政は慶長六年(1601)甥の池田由之に佐用郡2万3000石を与えた。利神城に入った由之は、五年の歳月をかけ大改修を行い、山頂に三層の天守を有した近世城郭を完成させた。しかし、由之の要請で利神城を見に来た輝政はそのあまりにも巨大で堅固な城郭に驚き、天守の破却を命じる。徳川幕府の警戒を恐れたためだといわれている。由之も慶長十四年(1609)に備前・下津井城に移動することになり、輝政の六男・輝興が佐用郡を与えられ利神城に入る。 池田氏の転封後、旗本の松平氏が平福入ると利神城は廃城となり麓に平福陣屋を置いた。 |
城について |
利神城は標高373m利神山のに築かれた山城である。城の東側麓には佐用川が流れ、因幡街道有数の宿場町平福の町並みが広がっている。利神山の頂上には立派な石垣群が連なっており、第二の竹田城として近年注目されているお城である。ただその豪壮な石垣群は一部の崩落が激しく、現在は危険なため立ち入り禁止となっている。 利神城はその史跡の価値から国史跡指定が確実となり、佐用町は石垣の修繕を含めた保存整備を進めるという。崩落の具合から修繕はなかなか大変だと思われるが、整備されれば日本有数の石垣群を有する山城として有名になることは必至でしょう。 |
登城口 行った時は草がすごかった。 |
登城道 登り始めは草が多かった。 |
登城道 徐々に草もなくなり登りやすくなってくる。 |
平福の街並み |
利神山中腹から見た山頂 |
利神山中腹から見た平福の街並み |
古い桟橋 いかにも危険な橋。 |
祠でしょうか |
登城道 それほど広くはないが歩きやすい。 |
西側の斜面 けっこう急な斜面だ。 |
三の丸跡から天守跡望む |
|
三の丸跡 |
三の丸の石垣 |
石垣跡 所々、石垣が見られる。 |
北東側の斜面 |
斜面に連なる北西側の石垣 復元整備するのも大変そうだ。 |
斜面に連なる北西側の石垣 |
崩れている石垣 結構大きな石が散乱している。 |
東側の石垣 草木に覆われて見にくいが、石垣が連なっている姿は圧巻。 |
石垣 |
石垣 |
天守下段の北東側 |
本丸側から見た三の丸跡 |
二の丸側から本丸の石垣を望む |
虎口の石垣 |
崩れた斜面 石垣の下部が崩れて危険な状態。 |
本丸跡 |
本丸跡にある双眼鏡 現在は使用不可となっている。 |
城跡から見た南西側の景色 |
利神山の西側を流れる佐用川 |
佐用川沿いに建つ民家 |
利神城 関連年表 |
1349年(正平四年/貞和五年) | 赤松氏の一族・別所敦範が利神山に砦を築く。 |
1578年(天正六年) | 上月城の山中幸盛(鹿介)らの軍勢に攻められ落城。 |
1601年(慶長六年) | 池田輝政の甥・池田由之が利神城に入り、城の改修を開始する。 |
1605年(慶長十年) | 三層の天守を有する近世城郭が完成するが、池田輝政が天守の破却を命じる。 |
1631年(寛永八年) | 池田氏転封後、旗本の松平氏が平福を治めることとなり、麓に陣屋を置いたため利神城は廃城となる。 |
周辺地図 | スポンサーリンク |
駐車場: 道の駅宿場町ひらふく(無料)、 平福郷土館(無料) 最寄り駅:智頭急行智頭線「平福駅」 訪問年月:2007年6月 |
戦国探求トップページ>お城めぐり |
Copyright (C) 2009-2024 戦国探求 All Rights Reserved