上月城
(こうづきじょう)
別名:-
場所 播磨国
兵庫県佐用郡佐用町上月
築城者 上月景盛
築城年 延元元年・建武三年(1336)
主な城主 上月景盛・盛忠・景則、赤松政範、尼子勝久、蜂須賀氏、小出氏 
主な遺構 曲輪、堀切、土塁


歴史背景
 上月城は延元元年/建武三年(1336)、赤松氏の一族である上月景盛が大平山に砦を築いたのが始まりとされている。上月氏は主家の赤松氏とともに嘉吉の乱(1441年)の勃発により山名氏に攻め滅ぼされてしまう。その後、赤松氏は応仁の乱を機に再び播磨国の守護に返り咲き、本拠を置塩城に置いた。しかし、赤松氏は戦国時代になると徐々に衰退し西播磨の一部を支配するにとどまり、上月城も赤松氏の一族が支配していた。
 
 天正五年(1577)になると織田家臣・羽柴秀吉黒田官兵衛の協力を得て播磨国攻略を進め次々と織田陣営に播磨の国人衆を引き入れていったが、毛利氏に通じていた西播磨の赤松政範は従わなかった。そのため秀吉は軍勢を率いて天正五年(1577)十一月には福原(佐用)城を落としさらに赤松政範籠る上月城にも侵攻する。当時、毛利陣営だった宇喜多直家は上月城に3000の援軍を送るが、羽柴勢はこれを撃退。孤立した上月城は羽柴勢の大軍に攻撃され十二月に落城する。(第一次上月城の戦い
 
 秀吉は毛利氏との最前線である上月城を尼子勝久を主とする山中幸盛(鹿介)立原久綱らを中心とした尼子氏再興軍に任せることとなる。天正六年(1578)二月、三木城別所長治が織田氏に反旗を翻し、それに呼応した毛利氏の小早川隆景吉川元春が3万を超える大軍を率いて西播磨に侵入し四月には上月城を囲む。秀吉は約1万の軍勢を率いて上月城の救援に向かい高倉山に陣を敷くが、毛利の大軍を前に動くに動けない状況となる。この状況に織田信長は秀吉に三木城攻略を優先するように命じたため、秀吉は救援をあきらめ一旦姫路・書写山の本陣に撤退してしまう。このため上月城は孤立無援状態となる。秀吉は尼子勝久に城を捨てて落ち延びるように伝えたが、勝久は断ったといわれる。また毛利氏側も領内の安定のためにも今まで手を焼いてきた尼子氏の残党をここで一気に葬り去る好機で、上月城の包囲網を厳重にしていた。ついに天正六年(1578)七月、尼子勝久は城兵の助命を条件に開城し切腹。尼子氏再興に執念を燃やした山中幸盛も毛利軍に捕縛され、護送途中の備中・阿井の渡しで殺害されてしまう。(第二次上月城の戦い
 
 その後、再び上月城は羽柴氏所有となり蜂須賀氏、小出氏等が城主を務めるが次第に戦略的価値を失い廃城となる。

上月城跡遊歩道入口

上月城跡登山道
けっこう整備されています。

城について
 上月城は山城で当初大平山に築かれたが戦国時代には南側の荒神山に主郭が置かれていた。上月城の東側には佐用川が流れ、北側には播磨と美作を結ぶ出雲街道が通り、さらに南に行くと山陽道に通じるなど交通要衝の地となっている。平野の狭い、山に囲まれた地域で、毛利軍は本当にこの小規模な城を3万もの大軍で取り囲んだのかと疑問にも思えるが、さすがにその数で取り囲まれたら逃げ場がなかっただろうと推測される。上月城は山城なので当然山登りとなるが、遊歩道が整備されていてそれほど急斜面もないのでそれほど苦もなく、本丸跡まで行くことができる。本丸跡、二の丸跡はそんなに広くはないため、それほど多くの軍勢が籠れる城でもないようだ。堀切跡はけっこうな数あり標識も設置されているので遺構が分かりやすくなっている。本丸跡に赤松政範の供養碑、麓には尼子勝久、山中鹿介追悼碑、さらに上月城戦没者慰霊碑がある。織田氏と毛利氏による激しい戦いがあった城で歴史的にとても興味深い城の1つである。



登城道

登城道
山道をひたすら登ります。

堀切跡
よく分かりませんが堀切跡のようです

登城道

曲輪跡
登っていくと次第に平な面が出てきます。

あと少しで本丸跡

一段高い所が本丸跡

本丸跡に建つ赤松氏の供養碑

中央の石碑は「赤松蔵人大輔政範之碑」とある。
秀吉に攻撃されるまでの上月城主で西播磨を支配した戦国大名。

本丸(主郭)跡
それほど広くはないが平地に掘削されている場所が広がっています。

二の丸跡
細長な造りとなっています。

下山道に続く曲輪跡
細長の平地が続きます。

堀切跡
草に覆われてわからないが堀切があったようだ。

搦手道(下山道)
けっこう急な坂道となっている。

搦手道(下山道)

搦手道入口
この小川も堀の役目をしていたのでしょうか

「上月氏発祥の地」の石碑

尼子勝久追悼碑
尼子勝久は尼子誠久の五男で、新宮党粛清後京都で僧となっていたが、
山中鹿介、立原久綱らに擁立されて尼子氏再興軍の大将となる。

山中鹿之助追悼の碑

上月城戦没者慰霊碑

上月歴史資料館

幕末の尊王攘夷派志士・立石孫一郎生誕地碑


上月城跡平面図(現地案内板より)

上月城周辺図(現地案内板より)

上月城 関連年表
1336年(延元元年/建武三年) 上月景盛が大平山に上月城を築く。
1441年(嘉吉元年) 嘉吉の乱より赤松氏が没落し上月氏も滅び、山名氏が播磨を支配する。
1577年(天正五年) 十二月、織田氏家臣・羽柴秀吉の攻撃により、赤松政範籠る上月城が落城する。
1578年(天正六年) 三月、三木城の別所長治が織田氏に反旗を翻して籠城を開始する。
四月、織田方の尼子勝久、山中幸盛等が籠る上月城を毛利軍が包囲する。
五月、羽柴秀吉が上月城救援のため、高倉山に陣を敷く。
六月下旬、信長の命により羽柴軍は高倉山から撤退する。
七月初旬、尼子勝久、山中幸盛等が籠る上月城が落城する。
      尼子勝久は自害。山中幸盛は捕縛され護送途中の阿井の渡しで殺害される。



周辺地図 スポンサーリンク
駐車場:歴史資料館駐車場(無料)
最寄り駅:JR姫新線「上月駅」
訪問年月:2008年5月



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