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砥石城 (といしじょう) 別名:砥石山城、砥石ケ城 瀬戸内市指定史跡 |
場所 | 備前国 岡山県瀬戸内市邑久町豊原 |
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築城者 | 宇喜多能家 | |
築城年 | 大永年間(1521〜1528) | |
主な城主 | 宇喜多能家、浮田国定、宇喜多春家 | |
主な遺構 | 石垣、曲輪、堀切、土塁 |
歴史背景 |
砥石城は備前国守護代・浦上宗村の家臣であった宇喜多能家(宇喜多直家の祖父)が大永年間(1521〜1528)に築いたといわれている。能家は優れた武将で浦上氏の信任が厚かったが、天文三年(1534)、同じ浦上氏の家臣でありながら折り合いの悪かった高取山城主・島村豊後守の夜襲を受け、能家は自害。子の興家は幼少の直家らを連れて落ち延びたが、放浪生活を送ることとなる。 やがて成長した宇喜多直家は天神山城主・浦上宗景に仕官し乙子城主となる。そして永禄二年(1559)、直家は仇敵・島村豊後守を殺害し、さらに砥石城主となっていた浮田大和守国定を浦上宗景とともに撃退。砥石城には弟の春家を入れて守らせた。 のち直家が岡山城主となると沼城(亀山城)を春家に守らせ、砥石城には家臣を入れたが徐々に存在意義が薄れ廃城になったと考えられるが廃城時期は不明である。 |
南側の登城口にある「宇喜多直家生誕之地」の石碑 |
砥石城登城口 こちらは南側の登城口となる。 |
登城道 比較的整備されていて歩きやすい。 |
本丸へ続く登城道 |
城について |
砥石城は標高100mほどの砥石山に築かれた山城で北には千町川が流れ自然の堀となっている。頂上に本丸跡が残り、現地の案内板によると五連郭の本城と四連郭の出城から構成された城郭だったようだ。城自体は小規模なもので、島村豊後守の居城である高取山城とは山こそ違うが尾根伝いで繋がっており、いきなり襲撃されたらひとたまりもないことはよく分かる。 また砥石城は、謀略を駆使して備前・美作一円に勢力を拡大した戦国大名・宇喜多直家の生誕地で南側の登城口には生誕碑が建っている。本丸跡まで登山道が比較的整備されておりそんなに苦も無く本丸跡まで行けたような記憶がある。 |
登城道 |
登城道 石段を登れば本丸跡。 |
「砥石城跡」 何とか読める。 |
本丸跡 狭いが周りにあまり木がないので見晴らしが良い。 |
違う角度から本丸跡 |
本丸跡からの眺め 城北側は平地が続いていて、千町川が前面に見える。 |
本丸跡の祠 |
本丸跡の石垣 城跡の石垣ではないようだ。 |
石垣跡? |
北側の登城道 |
砥石城北側の登城口 |
砥石城遠景 |
砥石城縄張図(現地案内板より) |
砥石城 関連年表 |
1521〜1528年(大永年間) | 浦上家の家臣・宇喜多能家が砥石城を築く。 |
1529年(享禄二年) | 宇喜多直家が砥石城で生まれる。 |
1534年(天文三年) | 島村豊後守が砥石城を襲撃し、宇喜多能家は自害。宇喜多興家・直家父子は落ち延びる。 |
1559年(永禄二年) | 直家、島村豊後守を誘殺。 直家、浮田大和守を撃退し、砥石城を奪還する。砥石城には宇喜多春家を配する。 |
1570年〜1575年頃 | 春家、沼城(亀山城)に移る。 |
砥石城跡 周辺図 | スポンサーリンク |
駐車場:なし。 訪問年月:2008年3月 |
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