備中松山城
(びっちゅうまつやまじょう)
別名:高梁城、小松山城
国指定史跡、日本100名城(68)、日本三大山城
場所 備中国
岡山県高梁市内山下
築城者 秋庭重信
築城年 仁治元年(1240)
主な城主 三村家親、元親、毛利家城代、徳川家城番(小堀正次、政一[遠州])、池田長幸、水谷勝宗、板倉氏など
主な遺構 国指定重要文化財:天守、二重櫓、三の平櫓東土塀
その他:五の平櫓、六の平櫓、門、石垣、塀、曲輪、堀切

歴史背景
 備中松山城は、仁治元年(1240)、秋庭重信が臥牛山の主峰大松山に砦を築いたのが始まりとされる。

 戦国時代には、三村家親が城主となり備中支配の拠点となった。家親は、毛利元就と組んで勢力を拡大していき、備中国を統一。さらに美作、備前などにも兵を進め、宇喜多直家と激しく対立するようになり、戦いを有利に進めていた。しかし、家親は、永禄九年(1566)、直家の配下に暗殺されてしまう。跡を継いだ息子の元親は、永禄十年(1567)、復讐に燃え宇喜多氏討伐の兵を進めるが大敗(明禅寺合戦)。その後、天正二年(1574)、毛利氏が仇である宇喜多直家と結んだため、元親は毛利を離れ、織田信長と手を結ぶこととなる。これに危機感を感じた毛利家は、小早川隆景が8万ともいわれる大軍を率いて三村氏討伐を開始。元親は備中松山城を「砦二十一丸」と呼ばれる出丸を築いて臥牛山全体を要塞化していたため、毛利軍率いる隆景は城を取り囲んで無理攻めせず、周囲の城から落としていった。備中松山城は裸城となり、城が包囲されて1ヶ月もたつと三村軍は内部から崩れ始め、元親も自刃して城は陥落する(備中兵乱)。以後、毛利家の東部進出の拠点として機能し、その支配は関ヶ原の戦いで毛利家が減封されるまで続く。

 関ヶ原の戦い後は、徳川幕府の城番として、小堀正次、政一(遠州)親子が城に入り、修改築をおこなった。以後、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と次々と城主が代わった。その中で、現在の残っている城郭に大規模な改修を行ったのが水谷勝宗である。

 幕末に備中松山藩を治めた板倉家は幕府の重鎮であったため、戊辰戦争では当然、新政府軍の標的となったが、留守である藩主に代わり山田方谷(備中松山藩の藩財政を立て直したことで有名な人物)が無血開城することとなる。ちなみに藩主の板倉勝静は、最後まで幕府に忠誠を尽くし、五稜郭まで新政府軍と戦った忠臣であった。



2重2階と小規模ながら風格漂う現存天守
(国指定重要文化財)

現存ではあるが、山の上にあったため、明治以降忘れ去られ、
昭和初期に修復されるまでぼろぼろの建物であった。

五の平櫓天守

備中松山城遠景
正面の山が備中松山城がある臥牛山で左側が高梁市中心部

中太鼓丸に残る石垣

上太鼓丸

上太鼓丸から見た高梁市中心部。
右には高梁川が見える

大手門跡
ここから石垣群がはじまる。

城について
 備中松山城は、日本三大山城の1つで、現存天守が日本で一番高い所(標高約480m)に位置する。というよりも山城で現存天守が残っているのは備中松山城だけである。城の縄張りは、臥牛山全体におよび、江戸時代には南の山裾に「御根小屋」といわれる藩政を行う御殿も建っていたそうだ。

 この城の魅力は、何といっても峻険な岩盤の上に築かれた石垣である。この最初に見える石垣群を眺めるだけでも十分来た甲斐があるといえる。天守はやはり、高所に建てられていたものなので小ぶりであり、平地に築かれた他の城の大天守に比べれば当然見劣るが、これが残ってあること自体がすばらしい。ただ、改修される以前の天守はぼろぼろで傾いていたようなので、現存としてはかなり手が加えられていて、新しく感じられる点は残念なところではある。

 また、小松山に築かれた近世城郭の奥には、中世城郭の大松山城跡があるのでそちらにも足を延ばせば、この城の全体が把握できる。



下から見た石垣群

急峻な岩の上に石垣と塀があり、堅固な守りを感じさせる

幾重にも配置された石垣

幾重にも配置された石垣

二の丸より三の丸を望む

三の平櫓東土塀(国指定重要文化財)

手前左が六の平櫓で右が五の平櫓(ともに復元)

五の平櫓

五の平櫓天守

本丸東御門(復元)
左の階段を上ると天守がある

本丸の土塀と石垣

本丸の土塀と石垣

二重櫓(国指定重要文化財)

別の角度から二重櫓

番所跡
[
堀切本丸北の橋
ここを渡って「天神の丸」「大松山城」に向かう
。戦闘時には橋は切り落とされ
敵に備えた

「天神の丸」「大松山城」に向かう通路には、
石垣がところどころ残っている。

天神丸跡
標高478m臥牛山の頂上にあり大松山城の要で、
三村氏時代には、重要な曲輪であった

大松山城跡
草木に覆われ、遺構らしきものは、発見出来なかった

大松山城本丸跡の石碑
これ以上奥には不気味で行く気がしなかった

大松山城の大池
城に籠もる時の貴重な水瓶の役割を果たした

番所跡

大松山城の奥には、吊り橋があり、下は断崖絶壁である

吊り橋からの眺め

備中松山城 関連年表
1240年(延応二年) 有漢郷の地頭・秋庭重信が臥牛山の大松山に砦を築く。
1561年(永禄四年) 成羽鶴首城主・三村家親が毛利氏の支援を得て、尼子氏の城番・吉田左京亮を討ち、備中松山城主となる。
1566年(永禄九年) 三村家親が宇喜多直家に暗殺される。
次男の三村元親が家親の跡を継ぎ備中松山城主となる。
1567年(永禄十年) 三村軍、明善寺合戦で宇喜多軍に大敗。
1572年(元亀三年) 毛利氏と宇喜多直家が和睦し、手を結ぶ。
元親、毛利を離反し、織田信長と手を結ぶ。
1574年(天正二年) 小早川隆景率いる毛利軍が三村氏の備中諸城の攻撃を開始する。
1575年(天正三年) 小早川隆景、備中松山城を落とす。元親は自害し、三村氏は滅ぶ。(備中兵乱
以後、関ヶ原の戦いまで毛利領
1600年(慶長五年) 西軍についた毛利氏は、備中松山城を没収され、代わりに徳川家の城番が置かれ、小堀氏が城に入る。
その後、池田氏、水野氏、水谷氏、浅野氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と代わり明治維新。


備中松山城 周辺地図 スポンサーリンク
駐車場:ふいご峠駐車場14台(平日のみ)
城見橋公園駐車場110台
(日祝祭日はそこからバスでふいご峠駐車場へ移動)
最寄り駅:JR伯備線「備中高梁駅」

訪問年月:2007年4月



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