米子城
(よなごじょう)

別名:久米城、湊山城
国史跡、続日本百名城(169)
場所 伯耆国
鳥取県米子市久米町
築城者 山名宗之?
築城年 応仁から文明年間(1467〜1487)
主な城主 山名氏、尼子氏、吉川元春・広家、中村一忠、加藤貞泰
池田由之・由成、荒尾氏(鳥取藩池田家家老職)
主な遺構 石垣、曲輪、天守台

歴史背景
 米子城は、伯耆国守護・山名教之の配下である山名宗之によって、応仁年間から文明年間(1467〜1487)頃に築かれたと伝わるが定かではない。この頃は城というより、砦のようなものだったと考えられる。

 戦国時代になり、出雲の尼子経久が勢力を拡大すると米子城は尼子氏の支配下になる。尼子氏の支配が長く続くが、毛利元就が山陰にまで勢力を伸ばし始めると、尼子氏と毛利氏との間で激しい争奪戦の末、毛利氏の支配下となる。

 天正十九年(1591)、月山富田城主だった吉川広家は米子城へ本拠を移すため、米子湊山で築城工事を開始する。天守は4層4階で、それまであった城に比べかなり大規模な造りとした。しかし、関ヶ原の合戦後に本家・毛利家が大減封となり、吉川広家も城の完成を見ぬまま岩国へ国替えとなる。

 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで東軍に与した中村一忠(一氏の嫡男)が駿河・駿府から伯耆・米子17万5000石の領主に封じられる。一忠は本丸を拡張して、4層5階の天守建設に着手し、米子城は慶長七年(1602)頃にほぼ完成する。しかし一忠は跡取りを決めないまま、慶長十四年(1609)、20歳の若さで急死したため中村家は断絶処分となる。

 翌・慶長十五年(1610)、中村氏に替わって美濃国黒野城主・加藤貞泰が伯耆国会見・汗入郡6万石の領主として米子城に入城する。その貞泰も元和三年(1617)に伊予・大洲に転封となり、池田光政が因幡・伯耆国の領主として鳥取城に入って、米子城には一族の池田由之を配置した。翌年、由之が殺害されると子の由成が3万2千石の領地を継ぎ米子城代となる。寛永九年(1632)、光政は岡山へ国替えとなり、岡山より池田光仲が因幡・伯耆国32万石の領主として鳥取城に入る。そして家老の荒尾成利に1万5千石を与えて、米子城代とする。以降、鳥取池田家の家老である荒尾氏が代々、明治になるまで米子城主として城を預かった。



奥の高い所が副天守台の石垣
なかなかかっこいい造りである。

天守台石垣
中央の一番高いところが天守台で四段の石垣になっている。

本丸下の段から見た本丸の石垣
よく整備されていて見ごたえがある。

本丸・天守台
眺めが最高なので、城に興味がなくても来る価値あり。

城について
 米子城は標高約90mの湊山を中心に築かれ、北側に内膳丸の丸山、戦国時代には主郭でのちに出丸となった東側の飯山などからなる。そして南西側は中海に面しており天然の要衝となっている。安土桃山期になるとその中海の海水を引き込み、城の周囲に二重の堀をめぐらせて堅固な平山城と変貌する。また、山頂の本丸には四層五重と四重櫓という大小二つの天守が連なり、山陰一の華麗な城であった時期もある。現在、建造物は残っていないが、立派な石垣が本丸を中心に残っていて見ごたえ十分である。また、本丸からの眺めが抜群で米子市内を一望でき、天気がよければ伯耆富士・大山や中海、日本海などの絶景も見ることができる。



国指定史跡 米子城跡

二ノ丸 枡形入口

山頂に向かう石段

内膳丸に登る石段

二段構えとなっている内膳丸
本丸の守りを強化する役目を担った。

内膳丸
中村一忠の家老、横田内膳村詮によって築かれたため、
「内膳丸」と呼ばれる。

内膳丸から見た山頂の本丸

枡形門跡
本丸のすぐ下に位置する。

本丸北側の虎口

本丸の石垣群

天守台から見た副天守台

副天守台の石垣

鉄門跡

遠見櫓跡

天守台の礎石

天守台からの眺めは最高。

米子城 関連年表
1467年(応仁元年) この頃、山名教之の配下である山名宗之が米子飯山砦を築いたと伝わる。
1524年(応永四年) 出雲の尼子経久が伯耆に攻め入り、米子城は尼子氏の支配下となる。
1562年(永禄五年) この頃、毛利氏の尼子氏攻略が本格的になり、米子城も攻撃される。
1591年(天正十九年) 吉川広家が米子湊山に築城を開始する。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦い後、吉川広家は岩国へ転封となり、中村一忠が駿河・駿府より17万5千石の領主として、伯耆の領主となる。
1602年(慶長七年) 湊山の米子城が完成し、一忠が入城する。
1609年(慶長十四年) 中村一忠が20歳で急死し、中村家は断絶となる。
1610年(慶長十五年) 加藤貞泰が美濃・黒野より伯耆国会見・汗入郡6万石の領主となり、米子城に入城する。
1617年(元和三年) 加藤貞泰が伊予・大洲に転封となり、因幡・伯耆国の領主となった池田光政は鳥取城に入り、米子城には一族の池田由之に3万2千石を与えて配した。
1632年(寛永九年) 池田光政は岡山へ転封となり、池田光仲が因幡・伯耆国の領主となる。そして家老の荒尾成利に1万5千石を与えて米子城代に命じた。以後明治まで、米子城は家老の荒尾家代々が城代として預かった。


米子城 周辺地図 スポンサーリンク
 
駐車場:湊山公園に無料駐車場あり
最寄り駅:JR米子駅
訪問年月:2008年9月

 
米子城 御城印

続日本100名城スタンプ
169米子城

御城印販売場所  スタンプ設置場所 
 米子市立山陰歴史館 受付 米子市立山陰歴史館(入口前) 



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