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大洲城 (おおずじょう) 別名:地蔵ヶ岳城、大津城、比志城 愛媛県史跡、日本100名城 |
場所 | 伊予国 愛媛県大洲市大洲 |
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築城者 | 宇都宮豊房 | |
築城年 | 元弘元年(1331) | |
主な城主 | 戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰、小早川秀包など | |
主な遺構 | 国指定重要文化財:台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓 県指定有形文化財:下台所 その他:復元天守、多聞櫓(復元)、石垣、曲輪、堀、井戸など |
歴史背景 |
鎌倉時代末期の元弘元年(1331)、伊予国守護であった宇都宮豊房が地蔵ヶ岳に城を築いたのが始まりといわれている。二百年以上にわたり、宇都宮氏はこの城を拠点とするが、永禄十一年(1568)河野氏支援を名目に伊予に出兵してきた毛利軍に宇都宮氏は降伏。時の当主・宇都宮豊綱は城を追われ、のちに宇都宮氏の家老であった大野直之が城主となる。しかし、天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国征伐により長宗我部元親に味方した大野直之は城を追われる。戦後、秀吉に伊予一国を与えられた小早川隆景は湯築城に入城し、大洲城には養子の秀包を置いた。 隆景が筑前に移った後は、秀吉の家臣である戸田勝隆(16万石)、藤堂高虎(7万石)、脇坂安治(5万3500石)と次々と城主が代わることとなる。この頃に、4層4階の天守をはじめとする近世城郭の整備がされたようだ。 元和三年(1617)には、加藤貞泰が米子より6万石の領主として大洲に入城。以降、明治維新を迎えるまで約250年にわたり加藤氏が大洲を治めることとなる。 |
天守閣(平成16年に木造で復元) 4層4階の天守は慶長年間(1596〜1614)に建てられたといわれるが、 明治二十一年(1888)に取り壊された。 |
天主閣と高欄櫓 |
対岸から見た天主閣と台所櫓 |
下から見た天主閣 |
城について |
大洲城は肱川のほとりにある小高い丘に築かれた平山城である。4棟の櫓(いずれも国の重要文化財)が現存していて、4層4階の天守も平成16年に木造で復元された。北東側に天然の要害・肱川が流れていてこの方面の守りは堅い。そして往時には、南西側に御殿をはじめ、二の丸、三ノ丸、内堀などが配置されていた。 大洲の地は松山と宇和島のほぼ中間点にあたり、伊予の南北を結ぶ大洲街道と宇和島街道の中継地として城下町も繁栄した。現在でも伊予の小京都と呼ばれているほどで、城の東に城下町が造られた。現在は天守閣も復元され、大洲城は大洲のシンボルにふさわしい雄大な姿を見せてくれる。特に肱川の対岸から見る大洲城は、水と緑に調和した城の姿が非常に美しい。 |
高欄櫓(国指定重要文化財) 安政四年(1857)の地震で大破するが、万延元年(1860)に 再建された。2階に縁と高欄のある櫓。 |
台所櫓(国指定重要文化財) 安政四年(1857)の地震で大破するが、安政六年(1859)に 再建された。1階では炊事ができたらしい。 |
苧綿櫓[おわたやぐら](国指定重要文化財) 天保十四年(1843)に再建される。 2層2階建てで石落としに格子窓が備えてあるのが特徴。 |
内堀菖蒲園 |
三の丸南隅櫓(国指定重要文化財) 大洲城現存最古の建物で、明和三年(1766)に再建されたもの。 三の丸にあるため、現在は一棟だけぽつんと離れて建っている。 |
違う角度から三の丸南隅櫓 |
下台所(県指定有形文化財) 城内の食料庫としての機能を果たしていたといわれる。 |
本丸の井戸 本丸唯一の井戸で、直径約3.8mと非常に大きい。 |
本丸の石垣 |
肱川側の石垣 |
天守閣内部 まだ、復元されてあまり経っていないため、とても新しい。 |
天守閣内部 吹き抜けになっている。 |
近世城郭に改修時のジオラマ |
天守の木組雛形 実際の天守の10分の1。 |
天守下の石垣 |
肱川側の急峻な斜面 |
天守より肱川を望む |
本丸より冨士山を望む |
近江聖人 中江藤樹像 江戸時代初期の儒学者で、日本において陽明学の開祖といわれ、 多くの門下生を育てた。大洲には、10歳から27歳まで過ごした。 |
神伝流発祥の地(県指定無形文化財) 大洲藩発祥の日本古来泳法の1つである |
大洲城 関連年表 |
1331年(元弘元年) | 宇都宮豊房が地蔵ヶ岳に城を築く。 |
1568年(永禄11年) | 宇都宮豊綱が毛利・河野連合軍に敗れ降伏し、宇都宮氏は滅亡する。 |
1585年(天正13年) | 豊臣秀吉の四国平定後、小早川隆景に伊予国が与えられ、大洲城は支城となる。 |
1587年(天正15年) | 豊臣家臣・戸田勝隆が16万石の領主として大洲に入城する。 |
1595年(文禄4年) | 藤堂高虎が7万石の領主として板島(宇和島)に入城し、大洲も領す。 |
1609年(慶長14年) | 脇坂安治が洲本より5万石余の領主として大洲に入城する。 |
1617年(元和3年) | 加藤貞泰が米子より6万石の領主として大洲に入城する。 以後、明治維新まで加藤氏が大洲城を居城とする。 |
大洲城 周辺地図 | スポンサーリンク |
駐車場:観光第1駐車場(無料) 市民会館駐車場(有料)併せて70台 最寄り駅:JR予讃線「伊予大洲駅」 訪問年月:2009年4月 |
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