和歌山城(わかやまじょう)
別名:虎伏城、伏虎城、竹垣城
国史跡、日本100名城
場所 紀伊国
和歌山県和歌山市一番丁
築城者 豊臣秀長
築城年 天正十三年(1585年)
主な城主 羽柴秀長(城代・桑山重晴、一晴)、浅野幸長、長晟
徳川頼宣、光貞、吉宗など
主な遺構 復元天守、櫓、石垣、堀、曲輪、門、橋


歴史背景
 豊臣秀吉が天正十三年(1585)、独立勢力だった根来衆、雑賀衆を退け紀州を平定した後、紀伊を弟・秀長に与えた。そして、秀吉自ら虎伏山を縄張りして、普請奉行に秀長の家臣である藤堂高虎、羽田長門守を任命し、本丸と二の丸を築造させた。翌天正十四年(1586)には、秀長(秀長の居城は大和郡山城)の城代として桑山重晴が3万石の領主として和歌山城に入城する。豊臣時代は桑山氏が城代として14年間、和歌山城に在番し、城郭の整備を進めた。

 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで東軍に味方した桑山一晴(重晴の孫)は大和・布施(新庄)に移封され、和歌山城には代わりに関ヶ原本戦に東軍で参戦した浅野幸長が37万6千石を領して入城した。浅野氏も、城郭をさらに整備し、その後の和歌山城の基礎となる築城を工事を行う。幸長自身は、関ヶ原では徳川家康に味方したものの、もともと豊臣恩顧の大名であるため、二条城の家康と豊臣秀頼の会見では、加藤清正と共に秀頼を警護したといわれ、豊臣家にも終生忠誠を尽くした。しかし、幸長はその会見の2年後に、38歳で死去。清正もすでに亡くなっており、この2人がいなくなったことにより、家康は大坂城の豊臣征伐をしやすくなったといわれる。案の定、幸長の死の翌年、大坂冬の陣が勃発し、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡。夏の陣では幸長の跡を継いだ長晟が徳川方で参戦し、塙直之を討ち取るなどの戦功を挙げる。そして長晟は、元和五年(1619)に城の無断修築で福島正則が所領を幕府に没収されたため、安芸・広島へ移封され42万石に加増された。

 浅野氏が去った後、和歌山城には家康の第十子・徳川頼宣が55万5千石を領して入城してくる。その後、和歌山城は徳川御三家にふさわしい城郭に拡大され、江戸時代を通して紀伊徳川家の居城としての役割を果たす。ちなみに、紀伊徳川家五代目が八代将軍になった徳川吉宗である。

大天守閣(復元)

城について
 和歌山城は、標高48mの虎伏山に築かれた平山城で、天守曲輪は四方を多聞櫓でつないだ連立式天守である。天守など大部分は、昭和二十年の空襲で消失したが天守曲輪の建物などが復元されている。戦災を免れた唯一の建物としては岡口門(国指定重要文化財)が現存し、また多くの石垣も残っている。その石垣は、桑山氏、浅野氏、徳川氏それぞれの時代に築かれた石垣がそれぞれ残っており、その違いを見ることが出来る。現在でも十分広域な城跡だが、それでも最盛期の4分の1ほどといわれているほど往時は大城郭だったようだ。



乾櫓

左手前が楠門、左奥が二の門櫓でその右が乾櫓

二の門櫓

二の門櫓

天守曲輪に続く階段

楠門(天守二の門)

野面積みの石垣
桑山氏時代のものとみられる。

石垣群

大天守からの眺め
紀ノ川河口が望め、和歌山港が見える。

大天守からの眺め


和歌山城 関連年表
1585年(天正十三年) 豊臣秀吉が紀州征伐を行い、平定。紀伊を弟・秀長に与え、虎伏山を城地に選定する。
1586年(天正十四年) 秀長の家臣・桑山重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入城。
1600年(慶長五年) 関ヶ原の戦いで東軍として活躍した浅野幸長が37万6千石を領し、和歌山城に入城。
1611年(慶長十六年) 二条城で家康と会見した豊臣秀頼の警護を加藤清正と共に幸長が行う。
1613年(慶長十八年) 幸長死去。幸長の弟である長晟が家督を継ぐ。
1614年(慶長十九年) 大坂冬の陣
1615年(慶長二十年) 大坂夏の陣。長晟、戦功を挙げる。
1619年(元和五年) 長晟、安芸・広島に転封され、42万石に加増される。
家康の第十子・徳川頼宣が55万5千石を領し、和歌山城に入城する。
以後、明治まで御三家紀伊徳川家の居城となる。


和歌山城 周辺地図 スポンサーリンク
 
駐車場: 有料駐車場有り(市営)
最寄り駅:JR和歌山駅、南海和歌山市駅
訪問年月:2006年10月





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