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徳川家康 (とくがわ いえやす) 徳川家(松平)当主、江戸幕府初代将軍 |
別名、改名、通称 | 竹千代(幼名)、松平元信、松平元康、松平家康、次郎三郎、大御所 | |
官位、役職 | 三河守、権中納言、右大臣、内大臣、征夷大将軍、五大老など | |
生没年 | 天文十一年(1543)〜元和二年(1616) | |
墓所 | 栃木県日光市山内 日光東照宮 静岡県静岡市駿河区根古屋 久能山東照宮 愛知県岡崎市鴨田町広元 大樹寺 |
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ゆかりのお城 | 江戸城、岡崎城、駿府城、浜松城、大坂城、二条城、伏見城、 高天神城、長篠城、大高城 |
徳川家康の生涯 |
幼少から少年期にかけて、織田家や今川家の人質として過ごすなど大変苦労するが、やがて織田信長の盟友となり、力をつける。豊臣秀吉時代には、1番の実力者となり五大老筆頭として秀吉政権を支える。秀吉死後に起きた関ヶ原の合戦に勝利し天下の実権を握ると、江戸幕府を開き初代征夷大将軍となり、戦国最後の勝利者といわれる。江戸幕府の基礎をつくり、その後260年も徳川の時代が続いたことからも家康の偉大さが分かる。 天文十一年(1542)、三河国岡崎城主・松平広忠の長男として生まれる。当時の松平家は駿河の今川家と尾張の織田家に挟まれ、どちらかに従属しなければ、生き残れない状況であった。竹千代(後の家康)の父広忠は、駿河の今川義元を頼り、人質として竹千代が駿府へ送られることとなる。だが、途中でさらわれ、織田信秀の元へ行くこととなるのである。それでも、広忠は今川家を大事と考え、信秀の「味方になれ」という脅迫に応じることはなかった。軟禁状態となった竹千代であったがそこで後の盟友・信長と出会ったことは幸運であった。 その間に、松平家を揺るがす大事件が起こる。当主の父・広忠が家臣に刺され死亡するのである。後に今川家の軍師・大原雪斎の活躍で竹千代を織田家から取り戻されるが、岡崎城には今川家の城代が入り竹千代は再び今川家の人質となるのである。そこで、苦難も味わうが成長し、やがて元服も果たし名も松平元信やがて元康と改めている。その元康に転機が訪れる。永禄三年(1560)の桶狭間の戦いである。この戦いで義元は討ち死にし、今川軍は織田軍に大敗。元康自身も従軍していたが別隊だったため、難を逃れ岡崎城に無事帰還している。やがて、今川家と縁を切り独立する。そして、尾張の織田信長と同盟を結ぶのである(清洲同盟)。 まず、家康は三河平定に全力を傾け、順調に領土を広げていくが、三河一向一揆が勃発するのである。一向一揆側に家康の家臣も多く参加し手を焼くが、無事鎮圧に成功する。そして、三河一国を平定すると徳川家康と名乗るようになる。 永禄十一年(1568)には、武田信玄と結び信玄は駿河へ侵攻し、家康は遠江へ侵攻を開始する。翌年には今川氏真の籠もる掛川城を攻囲し、開城させ遠江の大半を手にする。これにより、事実上今川家は滅亡する。さらに姉川の戦いにも参加し織田軍と共に浅井・朝倉連合軍を破る。だが、元亀二年(1571)になると、武田軍が遠江を侵略し始め、武田信玄と敵対するようになる。武田勢は、強力で徳川勢は次第に遠江で劣勢になっていく。そして、元亀三年(1572)十二月二十二日、徳川軍は三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗を喫し、ますます窮地に追い込まれていく。武田軍はさらに三河の野田城を落とし、さらに西上するかと思われたが信濃へ退却していったのである。武田方は隠していたが信玄が病死したのであった。家康にとっては、助かったというよりほかにない出来事で運が良かったといっていい。 武田軍は勝頼の代になっても頻繁に徳川領に出没し、難攻不落といわれた高天神城などを落としている。しかし、天正三年(1575)五月の長篠の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に圧勝し、これ以降、家康は三河・遠江での武田に対して有利な戦いを展開していく。天正七年(1579)、信長の命により正室築山殿殺害、長男信康切腹など悲しい事件もあったが、天正十年(1582)に武田勝頼は天目山で自刃し駿河を新たに手に入れる。これにより、三河、遠江、駿河3カ国の太守となる。そして家康は駿河をもらった礼に織田信長の安土城を訪れ、その後京都を周り、堺滞在中に大事件を耳にする。京の本能寺において織田信長が明智光秀の謀反により死去したという報せである。わずかな供しか引き連れていなかった家康は、いきなり大きな危機にさらされる。そこで家康一行は本領に帰るために目立たない伊賀越えを決意する。この伊賀越えは大変な苦労の連続となるが伊賀出身の服部半蔵や堺の茶屋四郎次郎の働きによって無事成功するのである(神君伊賀越え)。岡崎城に着いた家康は、光秀討伐のため兵を集め尾張まで進軍するも、すでに羽柴秀吉が光秀を討った報せを受けたため浜松城へ引き返すこととなる。そして、信長が死んだことにより、混乱に陥っていた甲斐・信濃へ兵を進める。信長と違い武田遺臣を積極的に登用したことにより比較的順調に甲斐・信濃の2カ国平定に成功する。 5カ国を支配する大大名となった家康であったが、次第に羽柴秀吉と対立するようになる。秀吉は山崎の合戦で明智光秀を破り、さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を打ち破り、信長死後もっとも天下人に近い存在となりつつあった。そして、天正十二年(1584)、信長の次男織田信雄と組み、秀吉と一戦交えるのである(小牧・長久手の戦い)。この戦いは、秀吉本隊との本格的な激突はなかったが、羽柴秀次率いる別働隊を殲滅するなど、兵の数では劣る家康の方が有利に戦いを進めていく。しかし、秀吉と信雄が講和したため、大義名分を失った家康も結局秀吉と講和する。そして、最終的に家康が秀吉の妹・朝日姫を娶り、秀吉に一応、臣従した形となる。そして、居城を浜松城から駿府城に移す。 天正十八年(1590)、秀吉による北条氏小田原征伐の先鋒として約3万の軍勢を率いて駿府を出発する。秀吉の20万を超える大軍は北条勢を圧倒し、次々と北条氏の諸城を落としていき、北条氏政・氏直父子は難攻不落の名城小田原城に籠城することになる。しかし、秀吉による完全な包囲により、わずか3ヶ月ほどで北条氏は降伏し、小田原城を開城する。そして、秀吉は家康に北条氏の旧領・関八州への移封を言い渡す。これに家康は従い、そのまま関東に留まって江戸を拠点とすることを決める。その後、周知のとおり江戸は大きな発展を遂げることとなる。 秀吉は奥州も平定し、天下統一を成し遂げ、次に朝鮮出兵を始めるが、徳川家は渡海することなく財力や兵力の消耗を避けられたのである。そして、秀吉が慶長三年(1598)に没すると、五奉行筆頭の石田三成は、五大老筆頭で実力が抜けている家康に危機感を持ち、家康排斥を企て対立するようになり関ヶ原の戦いへと発展していく。日本国中を二分したこの戦いは、豊臣恩顧の武将達の多くを味方に引き入れた家康の大勝利で幕を閉じる。これにより天下の覇権を握った家康は、慶長八年(1603)、江戸で幕府を開き征夷大将軍に任じられる。そして、慶長10年(1605)には、将軍職を子・徳川秀忠に譲り、徳川政権が永続的に続くことを豊臣家や豊臣恩顧の外様大名に示したのである。将軍職を退いた家康だが実権はなお握り、駿府城にて大御所政治を行うのである。そして、慶長十九年(1614)、家康にとって長年の懸案だった豊臣家の討伐を開始する(大坂冬の陣)。徳川軍約20万に対し豊臣軍約10万。秀吉が築いた難攻不落の大坂城に徳川軍は攻めあぐね、結局豊臣方と講和を結ぶのである。しかしこの講和は、あっさり破れ、翌年の大阪夏の陣へと発展していく。講和中に徳川方に堀を埋められ裸城にされていた大坂城では、とても防ぎきれないと判断した豊臣方は打って出る。真田信繁(幸村)などの活躍もあったが、数に勝る徳川方の勝利によって戦は幕を閉じる。豊臣秀頼・淀殿は大坂城にて自害。これにより、事実上徳川家を脅かす存在はいなくなる。家康は豊臣家を滅ぼして安心したのか大阪夏の陣の翌年、駿府城にて75歳で人生の幕を閉じる。 |
徳川家康の逸話 |
徳川家の家紋 三つ葉葵 |
祖父:松平清康 父:松平広忠 母:於大の方 正室:築山殿(関口親永の娘) 継室:朝日姫(豊臣秀吉の妹) 子:長男 松平信康、次男 結城秀康、三男 徳川秀忠、四男 松平忠吉、 五男 武田信吉、六男 松平忠輝、 九男 徳川義直、十男 徳川頼宣、十一男 徳川頼房など 孫:徳川家光、徳川忠長、千姫など |
徳川家康 関連年表 |
1542年(天文十一年) | 三河岡崎城主・松平広忠の子として生まれる。 |
1544年(天文十三年) | 父・広忠が於大の方と離縁。 |
1547年(天文十六年) | 今川氏の人質として駿府へ向かうも途中で戸田康光に欺かれ、織田信秀の人質となる。 |
1549年(天文十八年) | 父・広忠が家臣の岩松八弥に殺害される。今川家岡崎城を事実上占領。 今川氏の人質として駿府へ向かう。 |
1555年(弘治三年) | 今川義元の姪にあたる関口義広の娘・亀姫(築山殿)と結婚する。 |
1560年(永禄三年) | 桶狭間の戦いで今川義元戦死。岡崎城へ帰還。 |
1562年(永禄五年) | 織田信長と同盟を結ぶ(清洲同盟) |
1564年(永禄七年) | 2月、三河一向一揆を平定。 6月、三河国をほぼ平定。 |
1566年(永禄九年) | 徳川家康と名乗る。 |
1569年(永禄十二年) | 今川氏真の籠もる掛川城を攻略し今川家滅亡に追い込む。 |
1570年(元亀元年) | 織田信長と共に姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破る。 |
1572年(元亀三年) | 武田信玄に三方ヶ原の戦いで大敗する。 |
1573年(天正元年) | 武田信玄没する。 |
1575年(天正三年) | 織田・徳川連合軍、長篠の戦いで武田勝頼を破る。 |
1579年(天正七年) | 謀反の疑いで正妻・築山殿を殺害し、長男・信康に切腹を命じる。 |
1581年(天正九年) | 武田方の高天神城を攻略。 |
1582年(天正十年) | 2月、武田征伐のため、浜松城を出発。 3月、武田勝頼、天目山にて自害。信長より駿河一国を加増される。 6月、本能寺の変で信長死去。三河に帰るため堺より伊賀越えを敢行。 7月、甲斐・信濃へ侵攻。 |
1584年(天正十二年) | 小牧・長久手の戦い |
1586年(天正十四年) | 大阪城にて豊臣秀吉に謁見する(事実上、秀吉に臣従)。 |
1590年(天正十八年) | 2月、小田原征伐の先鋒として駿府を出発する。 7月、北条氏降伏し、小田原城開城。 8月、江戸城に入城。 |
1592年(文禄元年) | 豊臣家の朝鮮出兵により、肥前名護屋へ着陣。 |
1598年(慶長三年) | 豊臣秀吉没する。 |
1600年(慶長五年) | 石田三成率いる西軍に関ヶ原の合戦で勝利する。 |
1603年(慶長八年) | 征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く。 |
1605年(慶長十年) | 将軍職を子・秀忠に譲る。 |
1611年(慶長十六年) | 二条城にて豊臣秀頼と会見する。 |
1613年(慶長十八年) | 公家諸法度・吏使紫衣法度を定める。 |
1614年(慶長十九年) | 豊臣征伐を開始する(大阪冬の陣)。 |
1615年(元和元年) | 5月、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼす。 7月、武家諸法度、禁中並公家諸法度を定める。 |
1616年(元和二年) | 駿府城にて75歳で没する。 |
関ヶ原古戦場 決戦地 石田三成が陣取った笹尾山麓近くで最も激戦地だったといわれる。 |
関ヶ原古戦場 床机場・徳川家康最後陣跡 当初、桃配山に陣取った家康だが、遠くて戦況がつかめないため、10時頃この地に陣を進めた。戦いの終わりまで東軍を指揮した場所で、戦後の首実検もここで行ったといわれる。 |
江戸城(伏見櫓と二重橋) 関東へ移封されて以来、徳川家の本拠となった江戸城 |
二条城(国宝・二の丸御殿) 1603年、二条城で家康の将軍職就任拝賀の式が挙行された。 以後、徳川家の上洛の際の宿舎として二条城は利用される。 |
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