宇喜多直家(うきた なおいえ)
宇喜多家当主、浦上家家臣
別名、改名、通称 八郎、三郎右衛門尉、和泉守
生没年 享禄二年(1529)~天正十年(1582)
墓所 岡山県岡山市北区磨屋町 岡山寺
岡山県岡山市北区磨屋町 光珍寺(菩提寺)
ゆかりのお城 石山城(岡山城)、沼城、砥石城、乙子城、天神山城、明禅寺城
龍ノ口城、八浜城、三星城、新庄山城

宇喜多直家の生涯
 宇喜多直家は、権謀術数を駆使し、一代で備前・美作を領有する戦国大名になった中国地方を代表する謀将である。中国地方三大謀将といわれる一方で、領土拡大のために手段を選ばなかったため、梟雄とも呼ばれる。



 直家は、享禄二年(1529)、宇喜多興家の子として備前・砥石城で生まれる。直家の祖父・能家は備前の守護代・浦上村宗の家臣で智勇兼備の名将として名高かった。その能家が、家督を興家に譲って数年後の天文三年(1534)、同じ浦上家の家臣で以前から能家と仲の悪かった高取山城主・島村豊後守に突如、砥石城を襲われ、能家は自害。興家は直家ら妻子を連れて何とか落ち延びるが、一家は流浪生活を余儀なくされる。

 数年後、父・興家は亡くなるが、天文十二年(1543)直家は、浦上宗景に仕官し、翌年には乙子城主となる。そして、宗景の家臣として徐々に力を付けた直家は、永禄二年(1559)、浦上家に対して謀反の噂のあった舅である沼(亀山)城主・中山備中守を殺害。さらに、宇喜多家の仇敵である島村豊後守を誘き出して暗殺し、永禄四年(1561)には、龍ノ口城主・穝所元常を計略を用いて謀殺するなど、直家は謀略を駆使してのし上がっていく。

 永禄九年(1566)、備中一国をほぼ統一し備前や美作にまで勢力を伸ばしていた備中松山城主・三村家親を暗殺する。これには家親の息子で跡を継いだ元親の恨みを買い、翌十年(1567)、三村軍の大軍が宇喜多領に侵入し、明禅寺城が攻撃を受け落城する。しかし直家は、これにすばやく対応し、明禅寺城を奪還。さらに、宇喜多軍主力で三村軍を散々に打ち破り、三村家を備前から駆逐した(明禅寺合戦)。

 永禄十一年(1568)には、娘の嫁ぎ先である金川城主の松田氏を攻め滅ぼし、元亀元年(1570)、明禅寺合戦後傘下に入っていた石山城(のち岡山城)主の金光宗高に嫌疑をかけ切腹を命じ石山城を手に入れる。直家は、沼城から石山城に本拠を移し、城と共に城下町の本格的な建設に取り組むようになる。元亀三年(1572)には、直家は主君・宗景と共に毛利氏に降ることになるが、宗景は勢力を伸ばしていた織田信長陣営に鞍替えする。直家は毛利陣営に残り、宗景と対立するようになる。ここで、直家は中国地方随一の勢力を誇る毛利家の力を借り、浦上家を追い詰めていく。そして、天正三年(1575)に浦上宗景の居城である天神山城を落とし、備前統一を果たす。また、この年には毛利家による三村家討伐にも参加し、三村家は滅亡する。

 その後、織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国地方に進出してくると当初は毛利とともに対抗し、天正五年(1577)上月城で秀吉軍と争う。また、天正七年(1579)には、織田家に内応したとして娘婿の美作・三星城主・後藤勝基を滅ぼす。しかし、その年の10月、直家は秀吉の誘いに乗り、毛利家と手を切り織田家に服属する。以後は、毛利家と一進一退の攻防を繰り広げる。特に、別所長治や荒木村重が信長に反旗を翻した時は、秀吉が播磨などに釘付けとなったため、宇喜多家は毛利軍を一身に引き受け苦戦を強いられるが何とか食い止める。宇喜多家は、毛利家との攻防の中で秀吉の信頼を得ていくが、直家自身は病を患い秀吉にまだ若い息子の秀家を託し、天正九年(1581)岡山城にてその波乱に満ちた生涯を閉じる。享年53歳。


 宇喜多家はその後も秀吉に従い、家臣団は若い秀家をよくもり立てた。特に、秀吉の中国大返し時に宇喜多家は毛利家に対する防波堤となり、大いに秀吉に貢献する。毛利家が秀吉に従うまで宇喜多家は重要な役割を果たし、秀吉も宇喜多家を重用した。また、秀家は秀吉の寵愛を得て、豊臣一門同様の扱いを受け、後年五大老にまでなった。


宇喜多家家紋
島形に兒文字
祖父:宇喜多能家

父:宇喜多興家

子:宇喜多秀家など

兄弟:宇喜多忠家、宇喜多春家(忠家と春家は同一人物の説あり)


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宇喜多直家 関連年表
1529年(享禄二年)) 宇喜多興家の子として備前・砥石城で生まれる。
1534年(天文三年) 砥石城が島村豊後守に襲撃され、祖父・能家死去。直家、父・興家らと流浪生活を送る。
1536年(天文五年) 父・興家死去。
1543年(天文十二年) 浦上宗景に仕官する。
1544年(天文十三年) 備前・乙子城主となる。
1549年(天文十八年) 砥石城主・浮田大和を討って、宗景より新庄山(奈良部)城を与えられる。
1559年(永禄二年) 母の父である中山備中守を殺害し、沼城を乗っ取り、仇敵である島村豊後守も沼城で誅殺する。
1561年(永禄四年) 龍ノ口城を計略を用いて乗っ取る。
1566年(永禄九年) 三村家親を美作で暗殺する。
1567年(永禄十年) 明禅寺合戦で三村元親率いる備中軍を撃破。
1568年(永禄十一年) 娘が嫁いでいた備前・金川城主・松田氏を滅ぼす。
1570年(元亀元年) 宇喜多傘下の金光宗高が城主である石山城を乗っ取る。
1572年(元亀三年) 主君・浦上宗景とともに毛利氏に降る。
1575年(天正三年) 主君である宗景の居城・天神山城を攻め落とす。
1576年(天正四年) 美作の三浦氏を毛利氏とともに滅ぼす。
1579年(天正七年) 5月、娘婿である美作の後藤勝基を滅ぼす。
10月、毛利陣営から織田陣営に降る。
1581年(天正九年) 岡山城にて病死。享年53歳。

乙子城跡遠景
浦上家仕官当初の直家の居城

乙子城跡にある石碑
「宇喜多直家国とりはじまりの地」とある

直家生誕の地である砥石城跡
砥石城登城口にある直家誕生碑

新庄山(奈良部)城跡
天文十八年から永禄二年に沼城に移るまでの
十年間直家の居城となる

沼(亀山)城跡にある石碑
「直家飛躍の地」「亀山城跡」「秀家生誕地」とある

高取山城本丸跡
仇敵・島村豊後守の居城

天神山城跡
直家の主君であった浦上宗景の居城

岡山城天守閣
直家の晩年の居城・石山城は岡山城の
二の丸あたりにあったとされる

直家の父・興家の墓
岡山県瀬戸内市長船町福岡の妙興寺敷地内にある

龍ノ口城跡
現在は神社が建っている

一口メモ
 暗殺、毒殺、乗っ取りなどあらゆる手段を尽くしてのし上がった宇喜多直家は、謀略ばかりに目が行きがちだが、その時その時に応じた相手と手を結ぶなど外交にも優れ、先見の明があった武将であった。




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